2023年12月10日 アドヴェント第二主日礼拝説教「救い主を迎える」 東野尚志牧師

イザヤ書 第63章15~19節 
ヤコブの手紙 第5章7~11節

 アドヴェント第二の主日を迎えました。主の年2023年は、残すところ3週間となります。一年の歩みが終わろうとする中で、私たちは、クリスマスの祝いの時を迎えようとしているのです。私は、毎年、この季節を迎えるたびに思います。一年の終わりに、クリスマスを祝うことができるというのは、何と幸いなことであろうか。もしも、クリスマスが無かったら、この世界の悲惨で耐えがたい現実を、どのように受けとめたら良いのでしょうか。パレスチナの土地を巡る争いはなおも続いています。ガザ地域の多くの難民たちの生存が脅かされています。相手にテロ組織のレッテルをはることで、一切の妥協なしに、容赦なく攻撃を続ける正当性を主張できる。しかし、その巻き添えになって多くの命が失われているのです。
 昨年は、ロシアによるウクライナ侵攻から始まった戦争の話題で持ちきりでした。ニュース番組で、ウクライナの大統領の姿を見ない日はないくらいでした。昨年の漢字は、戦争の「戦」の字が選ばれたのです。ところが、今年の10月7日に、ハマスが突然、壁を越えてイスラエルを攻撃して以来、ウクライナのニュースがあまり耳に入らなくなりました。あちらの戦争が終結したわけではないのに、新しい戦争の話題で覆われてしまった感があります。いったい、今年の漢字は何が選ばれるのでしょうか。まさか二年続きで戦争の「戦」の字ということはないかと思いますが、異常気象が異常ではなくて日常になってしまい、戦争も日常になり、世界中がおかしくなりつつあるのではないかと思います。しかし、この世界には、クリスマスが刻まれています。神の独り子である主イエス・キリストが、この世界のただ中に、生まれてくださいました。そして、十字架と復活による救いの道を拓いてくださり、再び来るとの約束を残して、天に帰られたのです。

 主イエスの弟子たちが、世の終わりのしるしについて問うたとき、主は答えて言われました。「戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ福音書24章6~14節)。
 考えてみれば、二千年前、主イエスがこの地上に来られて以来、世界はずっと、産みの苦しみを続けて来たのではないでしょうか。戦争のない時代はほんのひと時もありませんでした。日本の国が、戦後78年の間、一度も戦争に巻き込まれずに平和を保ってきたと誇らしげに語っても、その間、同じ世界のどこかで、いつも戦争が続いていたのです。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がっているのです。世界中で、飢饉や地震も起こっています。つまずき、裏切り、憎み合い、偽預言者に惑わされ、不法がはびこり、愛が冷えている。それは、まさしく、この世界の現実となっています。確かに、まだ終わりは来ていません。けれども、主イエスがお出でになったときから、すでに終わりは始まっていると言ってよいのだと思います。
 主イエスは言われました。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。今朝、朗読したヤコブの手紙も勧めています。「それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい」(ヤコブ5章7節)。主イエスが語られた「終わり」、それは、「主が来られる時」です。主イエスは、すべてを終わらせるために来られる、と言ってもよいのです。神が、この世界をお造りになり、永遠なるお方である神が、時間を造られたことによって、この世界は、その初めから終わりに向かって、逆戻りすることなく一方向に進んで行く歴史となりました。そして、終わりの日、主イエスが再びこの地上にお出でになって、すべてをお裁きになります。その裁きを通して、主を信じる者たちの救いが完成されるのです。主が、すべてを終わらせるために来られるというのは、すべてを裁く方として来られるというだけではありません。救いを完成する方として来られるということでもあるのです。

 「それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい」。ヤコブは教会の仲間たち、兄弟姉妹たちに忍耐することを求めています。キリストを信じる者たちの群れが、激しい迫害にさらされていた時代のことです。さまざまな苦しみと悩みを伴う試練の中で、信仰を捨ててしまうことのないように、忍耐することを求めたのです。具体的に何を忍耐するのかがはっきりと示されているわけではありません。けれども、信仰者の忍耐には、はっきりとした目標が掲げられています。それは、「主が来られる時まで」という目標です。忍耐するのは、主が来られる時までのことです。試練を耐え忍ぶ忍耐の時は、永遠に続くわけではありません。主が来られる時、忍耐の時は終わるのです。
 「主が来られる時」、かつての口語訳聖書では、「主の来臨の時」と訳されていました。厳密に言えば、それは「主の再臨の時」ということになります。主は再び来られるのだからです。最初に主が来られた時と区別して、ここでは、「パルーシア」という特別な言葉が用いられています。それは、全権をもつ王が、自分の領地を公式に訪れることを意味する言葉です。主イエスの最初の来臨は、人々の目には隠されていました。ベツレヘムの家畜小屋で、主の誕生に立ち会うことを許されたのは、選ばれたごくわずかの者たちだけでした。けれども、主が再び来られる時には、状況は全く違います。主は、全権を持つ王として、誰の目にも明らかな栄光の内に、世界の裁き主として来られます。誰も、この王の来臨を無視することはできません。私たちは、そのようなまことの王である救い主の二つの来臨の間を生きているのです。主は来られました。そして、再び来られます。私たちは、2000年前の「クリスマス」とやがて来る「パルーシア」の間を生きているのです。

 「それゆえ、きょうだいたち、主が来られる時まで忍耐しなさい」。主イエスご自身が約束されたとおり、主は再び来られる。だから、その時が来るまで耐え忍びなさい。ヤコブはそう教えています。面白いことに、ここで用いられている「忍耐する」という言葉は、元来は「息が長い」という意味の言葉です。気短かに全てを放り出してしまうのではなくて、やがて必ず訪れる「主が来られる時」を信じて、気を長くして待ち望むのです。ヤコブはそのような忍耐の実例として、収穫を待つ農夫の姿を描きます。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待ちます」。大地の実りを収穫するのには時があります。いくら焦っても、自分の力で何とかしようとしても駄目なのです。
 当時、農夫たちが小麦の種を蒔くのは秋の季節のことでした。10月から11月ごろに降る秋の雨によって、土が柔らかになるのを待って、それから種を蒔きました。雨が降る前に、焦って種を蒔いてしまうと、種がうまく芽生えずに枯れてしまいます。秋の雨が降るのを待つ忍耐が必要でした。そしてさらに、収穫の前、4月から5月にかけて降る春の雨がまた大事です。実が十分に成長するために、この春の雨が必要なのです。やはりこれを待たなければならない。この雨が降る前にいろいろと手を加え、世話をしたからといって、それで収穫の時期が早くなったり、実りが多くなったりするわけではありません。人間がどんなに騒いでみても、どうすることもできない。農夫は、その間は、雨をもたらす天に、信頼して委ねるほかありません。やがて確実に訪れる雨を待ちながら、収穫に備えて耐え忍ぶのです。それと同じように、召された信仰者もまた、やがて確実にやって来る「主の来臨の時」、「主が再び来られる時」を待ち望み、忍耐するように、と教えるのです。

 耐え忍んで待つ者にとって、大きな励ましになるのは、約束の実現する時が近づいているという知らせです。待ち続けるというのは、なかなか大変なことです。しかも、待つ時間が長くなればなるほど、そこに疑いと迷いが忍び込んで来ます。疲れて来てしまうのです。ヤコブは、そのような、心の弱さをきっぱりと退けるようにと命じます。「あなたがたも忍耐しなさい。心を強く保ちなさい。主が来られる時が近づいているからです」(8節)。恐らく、私たちは、最初の教会の信徒たちが、この手紙を読んだときよりもさらに真剣に、ヤコブの語る勧めを聞かなければならないのではないかと思います。「主が来られる時が近づいている」、そのように聞き続けて、既に2000年の時が過ぎました。私たちは、心のどこかで、主の再臨はまだまだ先のことだと安心しているところがあるのではないでしょうか。最初の教会の信徒たちが、今日か、明日かと主の再臨を待ち受けたような、切羽詰まった緊張感は薄れてしまっているのです。
 確かに、一部の熱心な教派の人たちのように、あまりに主の再臨や終わりの日の裁きの到来を強調し過ぎることは、間違いを引き起こすもとになるかもしれません。けれども、今の状態に埋もれてしまい、慣れてしまって、終わりが来るということを忘れてしまうならば、信仰は、形だけのことになって命を失います。どんなに優れた言葉や知恵で飾り立てたとしても、キリストとの生きたつながり無くなってしまうのです。キリストは命のない飾り物ではありません。生きて支配される方です。それゆえに、その支配を完成するために、再びこの世に来られます。世界全体をお裁きになる。審判の時が来るのです。

 しかし、主の再臨については、すでに最初の頃の教会においても、さまざまな誤解や疑いが生まれていたようです。最初の信徒たちは、自分たちが生きている間にも、主がやって来られると信じていました。主イエス・キリストが栄光のうちに現れて、迫害に苦しむ信徒たちを助け出してくださる、その時を今日か明日かと待ち望んでいました。ところが、10年、20年が過ぎて、主の再臨を見ないままに、初代の信徒たちが天に召されていくようになります。かつて地上を歩まれた主イエスと共に過ごした、直弟子たちも次々に天に召されていきます。残された者たちには、戸惑いと疑いが生じてきました。待てど暮らせど、主は来られないという状況の中にあって、つぶやきが生じてきます。疑いが忍び込んできたのです。
 そのような疑い対する教会の答えが、ペトロの手紙の中に、はっきりと記されています。お開きにならなくて結構ですが、ペトロの手紙二の第3章9節の言葉です。「ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。ペトロは、神の忍耐について語りました。大変興味深いことに、ここに出てくる「忍耐する」という言葉は、ヤコブが用いたのと同じ言葉です。そこに、二重の忍耐があるのです。私たちが終わりの日を耐え忍んで待つ。その背後で、実は、神が忍耐しておられるのです。同じ言葉の名詞の形が、3章の15節では、「主の忍耐強さ」と訳されています。かつての口語訳聖書では、この言葉が「寛容」と訳されていました。神は、今この時も、全ての者が悔い改めに至るようにと、寛容な心をもって、忍耐強く待っておられるのです。神が忍耐して待っておられるからこそ、私たちも忍耐するのです。

 ヤコブは、続けて勧めを語ります。「きょうだいたち、裁かれることがないように、互いに不平を言ってはなりません。見なさい、裁く方が戸口に立っておられます」(5章9節)。ここでは、突然、現実的な戒めの言葉に切り変わったような印象を受けるかもしれません。お互いに不平を言うな、というのです。けれども、全体の流れの中で読むならば、私たちに求められる忍耐の具体的な姿を描いていると言ってよいのだと思います。私たちの忍耐がもっとも厳しく問われるのは、人間関係においてなのではないでしょうか。私たちは、ともすれば、お互いのことについて不平を言いたくなるのです。他人の欠点はよく目に付きます。教会の中でも、人を批判する言葉は見つけやすいのです。特に、牧師や役員など、さまざまな具体的働きのために立てられている者たちの足りないところや失敗はすぐに目に付く。自分の正しさに自信を持っている人ほど、他人の間違いには厳しくなります。それは批判的な思いとしてくすぶります。そして、何かをきっかけに噴き出して来る。それは、教会の交わりに対するつぶやきになり、場合によっては、それがつまずきとなって教会を去るようなことも起こります。
 けれども、ペトロが語ったように、神が私たちに対して忍耐しておられることを思い起こす時、改めて、私たち自身の忍耐が問われることになるのではないでしょうか。神が私たちに対して寛容であり、忍耐深くいてくださるように、私たちも隣り人に対して忍耐強くなる必要がある。いや、もしも、私たちが本当に、隣り人に対して寛容になることができるとしたら、それは、私たちが神の忍耐強さによって支えられ、生かされているからだと言わなければなりません。神は、なぜ私たちに対して忍耐強くいてくださるのか。それは、私たちを愛していてくださるからです。神が私たちを愛して、私たちに対して忍耐していてくださることを知るとき、私たちもまた、私たちの隣り人に対して、愛をもって忍耐することを学ばせられるのです。

 しかし、隣り人に対して忍耐し、寛容であるということは、口で言うほどたやすいことではありません。無関心でいるということではないのです。見て見ぬ振りをするということでもありません。「不平を言う」と訳された言葉は、元来は、「溜め息をつく」とか「うめく」という意味です。「互いに不平を言わぬこと」という教えは、「お互いに溜め息をつくな」と言い換えてもよいのです。私たちは、お互いに溜め息をつきたくなるときがよくあるのではないでしょうか。そして、つぶやくのです。どうして、この人はこんなに物分かりが悪いのか。どうして、こんなに頑固なのか。自分自身についてもため息をつきたくなるときがあります。私はどうしてこんなにだらしないのか。しかし、そういうつぶやきや溜め息の中からは、何も意味のあるものは生まれてきません。むしろ、新しく何かが生まれることをあきらめてしまっているのです。溜め息をつかない。それは、あきらめないということだと言ってもよいと思います。決して、あきらめない。自分についても、隣り人についても、あきらめない。なぜなら、神が、私たちのことをあきらめておられないからです。
 もしも、神が、切りのいいところであきらめてしまわれたとすれば、真っ先に切り捨てられてしまったはずの自分が、今、救いに入れられているのです。だから、私たちは、自分自身について、また私たちの隣り人に対しても、救いを信じ望むことができる。あきらめないで、神に祈ることができるのです。第5章の7節から、忍耐について書き記したヤコブは、13節以下では、祈りについて教えていきます。私たちが、お互いについて不平を言うのでなくて、お互いのために祈る者となることを、ヤコブは願っているのです。裁く方が、私たちの全ての言葉を聞いておられます。まことの裁きの権能をもって私たちのところに来られる方が、すでに戸口まで近づいておられるのです。

 そこで、ヤコブは、今一度、忍耐について教えます。旧約の預言者たちの姿を模範として掲げ、また、ヨブの忍耐を思い起こすようにと勧めます。もちろん、人間のわざだけを見ているのではありません。ヤコブは、旧約の預言者たちが、厳しい迫害を受けながらも、「主の名によって語った」ということに大きな意味を見いだしています。またヨブの忍耐が無駄にならなかったのは、主が「憐れみに満ち、慈しみ深い方」であったからに他なりません。ヨブの忍耐は、神がもたらしてくださった最後の結末によって、意味あるものとなりました。ヤコブは私たちに、厳しい忍耐を求めます。しかし、それは、主にあっては、私たちの忍耐が決して無駄にならないことを知っているからです。ヤコブは、約束された終わりから、私たちの現在を見ているのです。そして、それは、私たちすべてに与えられた、信仰者としてのまなざしであると言ってよいと思います。私たちが、この滝野川教会において学んできた終末論は、終わりの日がいつ来るかと計算するような終末論ではありません。終わりの完成から捉え直すようにして、終わりの祝福と喜びを先取りするようにして今を生きる。そのような終わりの喜びを知る者としての希望に満ちた生き方こそが、終末論的な生き方なのです。
 今、この世にあって、どのような厳しい困難に直面していても、あるいは、空しさとあきらめが支配するような、この世のただ中に置かれていても、私たちは、終わりにある救いの時、永遠の命に満たされる、喜びに満ちた完成の時が来ることを信じて待っています。父なる神は、私たちが、御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、命にあずかるように定めてくださいました。主イエスの十字架においてこそ、神の忍耐が貫かれた、と言ってよいかもしれません。ヘブライ人への手紙は、主イエスについて証しして語ります。「この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい」(ヘブライ12章2~3節)。神の忍耐は、ただ気の長い寛容だけではありません。まさに、十字架の死を耐え忍ぶ忍耐です。神の私たちに対する忍耐が貫かれたからこそ、今、私たちの救いがあります。私たちの忍耐は、キリストの忍耐によって支えられ、死をも突き抜けて、復活の望みへとつながるのです。

 この一年、世界と私たちを、さまざまな厳しい試練が襲いました。しかし、その一年の終わりに、主を待ち望むアドヴェントの時を過ごし、クリスマスを祝うことができます。すでに、この望みに満ちたアドヴェントから、教会の新しい一年が始まっているのです。預言者イザヤが望み見たように、主は天を裂いて、この地上にまで降りて来てくださいました。今、目には見えなくても霊なる主がいつも私たちと共にいてくださり、終わりの日には、誰の目にも明らかな栄光のお姿で、主は再び来てくださいます。その約束に対する信仰と望みをもって、この世界に愛と平和を実現するため、共に祈りを合わせながら、一人でも多くの人たちに、クリスマスの喜びを証しし、御国の福音を伝えて行きたいと思います。