2023年10月15日 主日礼拝説教「光に照らされた涙」 東野ひかり牧師
イザヤ書 53章1~6節
マルコによる福音書 第14章26〜31,66~72節
マルコによる福音書の第14章は、大変長い章です。第15章1節に「夜が明けるとすぐ」とあることからもわかりますように、この第14章に記されていることは夜の出来事です。第14章が長いようにここに描かれている夜も、実に長い夜です。
夜明け前がいちばん暗いと言われます。ペトロが主を知らないと三度にわたって言ってしまったこの出来事は、闇が最も深くなるとき、鶏が二度鳴く前の夜明け前のそのときに起こりました。ここに、最も深い闇の中に泣き崩れたペトロの姿が描き出されています。しかしこのペトロの姿を夜明けの光が照らし出し包んでいく。今朝共に読み聞きますのはそのような場面です。
この長い夜がどこから始まったかというと第14章17節です。そこに「夕方になると」とあります。そこは主イエスと弟子たちとの最後の食事、最後の晩餐の場面です。この長い夜は最後の晩餐と共に始まります。食事が終わり、主イエスと弟子たちは夜の闇の中オリーブ山へと向かいます。その道中、主は弟子たちに言われました。「あなたがたは皆、私につまずく。」ここで主が「皆、私につまずく」と言われたのは、十字架につけられるために主が捕らえられたとき、弟子たちは皆主を見捨てて逃げ去る、散らされる、ということを言っています。主は「あなたたちは皆、私を見捨てて逃げ去る」と言われたのです。その時ペトロが言います。「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません。」「他の人はあなたを見捨ててあなたから離れていくのかもしれない。でも私だけは違う、私だけはあなたを見捨てたりしない、私はあなたから離れはしない。」ペトロはそう言いました。
けれどもそのように言うペトロに、主は静かに言われました。「よく言っておく。」「まことに、私はあなたに言う。」「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう。」「あと数時間のちに、あなたは三度私を否む。」三度というのは、完全に、徹底的に、ということです。あなたは完全に、私との関係を否定することになる。主はそう言われました。しかしペトロは言い張ります。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」他の弟子たちも皆同じように言ったと、福音書は記します。ペトロも、他の弟子たちも皆言いました。「私は、私たちは決してあなたを見捨てるようなことはしない、たとえ死ぬことになろうとも、あなたを知らないなどとは口が裂けても言いません。」
夜が更けていきます。ゲツセマネでの厳しい祈りを祈り切り、主は決然と顔を上げて言われました。「立て、行こう、見よ、私を裏切る者が近づいて来た」。ユダを先頭に、主を捕らえて殺そうと大勢の人が向かってきます。主は真正面にユダを受けとめます。ユダの口づけを受けた主イエスは捕らえられ、父なる神のみ心に従い、十字架への道を進んで行かれます。数時間前の言葉もむなしく、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」。闇が濃く、深くなっていきます。
夜の闇の中、主イエスは大祭司の屋敷に連行されました。ユダヤの指導者たちによる裁判が始まります。深夜の裁判です。ただ主イエスを死刑にするためだけの裁判です。そこでも主は決然としておられました。不当な裁きを受ける中、「お前がメシアか」と問われたとき、「私がそれである」と、きっぱりとお答えになりました(62節)。
この大祭司の屋敷の中庭に、闇に紛れて主イエスの後を追って来たペトロの姿がありました。「他の人は見捨てるかもしれないが私は違う、私だけはあなたを見捨てない」そう言い張ったペトロは、その言葉を証明するようにひとり、主イエスに従って来ていました。54節「ペトロは、遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで入り、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。」
マルコによる福音書は、この大祭司の屋敷での出来事をまるで一つの舞台の上で二つの場面が演じられている演劇のような手法で描き出しています。屋敷の中では主イエスの裁判が行われている。屋敷の中庭では、ペトロが女中たちに問い詰められていく。主イエスは、十字架に向かってぶれることがありません。不当な裁きを受けても、死刑の判決を受けても、唾を吐きかけられ、殴る蹴るの暴行を受け辱められても、黙ってそれを受けておられました。
一方ペトロは、ただひとり主の後を追って大祭司の屋敷の中庭に来ていました。けれどもその様子は「遠くからイエスの後に付いて」でした。確かに主に従って来ていました。しかし「遠くから」でした。主のすぐ後ろに付いて行ったのではないのです。「遠くから」。自分の身を守るための十分な距離を取って、人目をはばかり闇に紛れて大祭司の中庭に入り、他の人たちの間に自分の身を隠すようにして、他の人たちと同じように火にあたっていました。
ペトロは主を見捨てきれないでいます。主から完全に離れることはできないでいます。主のことが気にかかる。けれど主に従うために自分の命を危険にさらすことはできない。自分の身を危険にさらしてまで主の後に付いていくことはできない。距離を取って「遠くから」、闇の中に身を隠すようにして主がどうなるのかを見届けようとしています。
主イエスが大祭司の前で「お前がメシアか」と問われ、決然とあからさまに「私がそれだ」と自らの姿を示しておられるのとは全く対照的なペトロの姿です。主イエスはかつて言われました。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(8:34)。しかしここでのペトロは、従うには従っているけれど、遠くから、身を隠しながら、主に従っている。言ってみれば中途半端に従っている。主の後についてはいない。距離を取っている。自分を捨てきれてもいない。自分の身の安全を保とうとしています。十字架に向かって歩まれる主イエスに従ったと言うには何とも中途半端です。
しかし、考えさせられるのです。このペトロの姿はまさに私たちの姿なのではないかと。私は主の後ろに従う者だと、私はキリスト者ですと、主の弟子ですと、私たちは自分の身をさらすことができない。このペトロのように、暗闇に身を隠すようにして遠くからこっそりついて行っているような者でしかない、自分の身は安全なところに隠しながら、でも遠くから、主の姿を見ている。私たちは、このペトロの姿にかなりリアルに、自分たちの姿を見させられるのではないでしょうか。
突然ですが、ご承知のとおり私の名前はひかりと言います。この名前は、両親が信仰をもって、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)と言われた主イエスの言葉からつけてくれた名前です。ですが私の子どもの頃はこういう名前は珍しく、また新幹線と同じ名前ということもあって、私はこの名前が恥ずかしくて仕方がありませんでした。けれどいちばん恥ずかしい思いをしたのは教会学校の礼拝で「ひかりひかり」というこどもさんびかを歌う時でした。私の通った教会学校は結構な確率でこの歌を歌いました。たぶんひかりという名前の私がいたから、このさんびかの登場頻度が多かったのだろうと今では思うのですけれど、私はこのさんびかを歌うのはとても嫌でした。
どういう歌かといいますと、「ひかりひかり、わたくしたちは、ひかりのこども、ひかりのように、あかるいこども、いつもあかるくうたいましょう。」二番は「ひかりひかり、わたくしたちは、ひかりのこども、ひかりのように、げんきなこども、いつもげんきであそびましょう」。ついでに三番もご紹介しますと「ひかりひかり、……ひかりのように、ただしいこども、いつもただしく、はげみましょう」。くどくど言わなくても、私がどんな思いでこの歌を歌ったか、ご想像いただけるのではないかと思います。でも教会学校の先生たちはこの歌を歌うと嬉しそうに言いました。「今日はひかりちゃんのうた、うたったね」と。私はちっとも嬉しくありませんでした。ひかりという名前を、学校でも教会でもいつでもどこでも、隠しておきたいというように思っていました。
大人になっても、今でもこの名前を隠しておきたいという気持ちを捨てきることはできませんでした。私は光ではない、光にはなれない、明るくもないし元気でもないし正しくもない。今もふと両親が信仰をもってつけてくれた「あなたは世の光」という名前を隠したいという気持ちになる。私は、「あなたがたは世の光」と主イエスがおっしゃっているのに、「私はひかりではありません」と言いながら、身を隠しながら、でもイエスさまから離れることはできなくて遠くからついていっているような、そんな自分を思うのです。暗闇の中に身を隠し自分の身を守りながら、「遠くから」主についていったペトロの姿には、いつまでもどこか中途半端で「生温い」(黙示録3:16)自分の信仰の姿が映し出されるような気がいたします。
しかし、この暗闇の中に自分を隠して遠くから主を見ていたペトロは、光の中に、明るみの中に、連れ出されます。ペトロは火にあたっていました。「ペトロは、遠くからイエスの後に付いて、大祭司の中庭まで入り、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。」(54節)暗闇の中、皆の中に紛れて、ペトロは火にあたっていました。多くの人がここで立ち止まります。「火にあたっていた」は、「光に向かって暖を取っていた」という書き方がされているからです。「光」という字が使われているのです。
暖を取るための焚火の炎が、ちょうどキャンプファイアーの炎のように火にあたっていた人たちの姿を照らし出していた。その様子をマルコは、ペトロが「光に向かって暖を取っていた」と書いたのだろうと思います。けれど多くの人がここを読み、この「光」という言葉に立ち止まる。ペトロの姿が、ここで光に照らし出された、光に曝されたと、そのように読み取っていく。遠くから暗闇の中に身を隠すようにして主について来ていたペトロの姿が明るみに出されていく。
炎の光に照らし出されたペトロの姿を大祭司の家の若い女中が見つけます。そして言います。「あなたもあのナザレのイエスといっしょにいた」。あなたはあのナザレのイエスの弟子でしょうと、ペトロは言われたのです。暗闇の中に、人々の中に、自分の身を隠し紛らせわせていたペトロは、その身を明るみに曝されてしまいます。「あなたはキリスト者でしょう」「あなたは主の弟子でしょう」「あなたは、ひかり、でしょう?」。
この女中の言葉は、ここにいる私たち、どこか暗闇の中に身を紛らわせているような私たちをも、明るみの中に引き入れるように思われます。遠くから主を見ようとしていたペトロも私たちも、炎の光によって、いや、光そのものである主イエス・キリストの光によって、照らし出されるのです。
ペトロはしどろもどろになります。「なにを言っているのか、わからない。見当もつかない。」このペトロの言葉は、文法も何もめちゃくちゃな本当にしどろもどろな言い方だと言われます。動揺しているのです。このようなペトロの姿にも私たちは自分の姿を見るようです。突然、あなたはキリスト者なんでしょう、教会に行っているんですってね、と言われたときの「えっ」と言葉に詰まり、うろたえる感じがこのペトロの姿に重なります。
ペトロの姿は、光に曝されながら、どんどん深い闇の中に転がり落ちていくようです。うろたえたペトロは、その場を離れます。光から遠ざかろうとします。闇の中に入り込んでしまおうとします。けれどこの女中さんはちょっとしつこくて、追いかけて来たようです。中庭から外に出ようとしていたペトロを見て、今度は周りの人たちに向かって言いました。「この人は、あの人たちの仲間だ。」ペトロは再び打ち消します。けれどしばらくすると周りの人たちが「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」そう言います。ペトロがうろたえて「違う違う」と言えば言うほど、ペトロのガリラヤ訛りの方言が丸出しになったのです。ペトロは、隠しようもなく、ありのままのその姿を暴かれていきます。主イエスと一緒にいた、主イエスがペトロと一緒にいてくださった、その姿が明るみに出されます。
レンブラントという画家がいます。聖書を題材にした絵を多く描いた画家として知られます。その中にこの場面の絵もあります。レンブラントはルカによる福音書の記事に基づいて描いていますが、興味深いことに、焚火の火にあたって明るく照らし出されたペトロの姿ではなく、女中が持っているろうそくの明かりに顔を明るく照らし出されたペトロの姿を描いています。暗がりの中に逃げ込もうとしたペトロを、この女中がろうそくの明かりをもってしつこく追いかけてきて、周りの人たちに「この人は、あの人たちの仲間よ」と言っている場面のように思わされる絵です。
今日のこの説教の準備の間、たまたま持っていたこのレンブラントの「聖ペトロの否認」という絵の絵葉書を机の前に貼ってそれを見ながら準備をしていました。この絵を見ながらふと思いました。「光が、ペトロを追いかけてきている」と。暗闇の中に隠れ留まろうとするペトロ、また私たちの姿を、光が追いかけてきているようだと思わされました。暗闇の中に身を隠している者を明るみに引き出そうとする主の光が、レンブラントの絵に描かれているように思いました。
しかしその光のもとで、光に照らされながら、ペトロは決定的に「主を知らない」と言ってしまう。「呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始め」るのです。ペトロは誓って言いました。「もし私があの人の仲間だというなら、私は呪われてもよい」と、そう言ったのです。このペトロの姿が、深い闇の中、夜明け前の最も深い闇の中で、明るみに曝されました。
ペトロは、主を知らないと言って主を否定しました。そして主を知っている自分を否定しました。主を知っている自分であるのに、知らないと言って主を呪い、主を知っている自分自身をも呪ったのです。完全に主を否定し、自分自身をも否定してしまいました。
遠くから、暗闇に紛れて主について行く。そういう中途半端な従い方、中途半端な信仰、中途半端な誠実さ・忠実さしか持ち得ない私たちです。しかしこの中途半端さは、結局は主を否定することにつながっていく。そして自分自身をも否定することにつながっていく。このペトロの姿はそのようなことを私たちに教えるとある説教者は語りました。厳しい言葉です。中途半端で良いとは言われないのです。遠くからでいいということではないのです。中途半端さは完全な否定につながるのだというのです。ペトロの姿は、そのような、まことに深い闇の姿、罪の姿だというのです。
私たちは、中途半端な従い方、中途半端な信仰、それで仕方ないんじゃない?と思っているところがあるかもしれません。「だって」とすぐに言いたくなります。「すべてを捨てて」従いきるなんてできない、それが当たり前だと言いたい心が私たちの中にあります。そう言いながら、自分を隠し、自分の身を守り、居心地の良いところから、遠くから主を眺めている。しかしいざとなると、主を捨ててしまう。自分とは関係ないと言ってしまう。自分を守っているようで自分のことも否定している。それが、私たちのありのままの姿ではないかと思わされます。
けれど、炎の光は、ろうそくの光は、主の光は、このペトロのありのままを、私たちのありのままを、全部照らし出します。光の下に曝すのです。主に従いきれずに、結局主を否定してしまい、自分自身をも否定してしまい、祝福ではなく呪いの中へと自分を落としてしまうような、そのような罪の姿が曝されるのです。
ペトロは、完全に主を否定して、主を知っている自分のことをも否定して、泣き崩れました。泣き崩れるほかなかった。その涙は複雑な涙だったでしょう。けれどペトロは、自分のことが情けなくて泣いたのでも、自分の弱さを嘆いて泣いたのでもありません。自分自身に嫌気がさして泣いたのでもありません。なんて自分はダメな人間なんだと自己嫌悪に陥って泣いたのでもありません。そういう思いもあったかもしれませんが、それで泣き崩れたのではありません。
ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言う」と言われた主の「言葉を思い出して、泣き崩れた」のです。この「泣いた」は、声を出して泣いたという意味の言葉です。ペトロは、声を出して、男泣きに泣いた。泣き崩れた。自分の胸を叩いたでしょう。ああ、と言いながら、泣きながら、自分の胸を叩いたでしょう。ペトロのこの涙を引き起こしたのは、主の言葉です。主の言葉の力、主の言葉の光です。
主はすべてをご存知でした。ありのままのペトロをご存知だったのです。主を知らないと言ってしまう、主をも自分をも呪ってしまう、そういうペトロを全部知っていてくださったのです。その主の、愛の言葉を、赦しの言葉を、光の言葉を、ペトロは思い出して泣いたのです。主の言葉の力とその光の中で泣いたのです。
このペトロの姿に、私たちは自分の姿を見ることが許されています。中途半端な信仰しか持ち得ないから、完全な信仰を持とうというのではありません。ただ、光のもとに、光に照らされて、罪を曝され、それを悔いて泣くほかない。主よ赦してくださいと泣くほかない。そういう姿です。けれどその涙を光が照らします。赦しの光が照らします。
鶏が鳴き、夜が明けます。日の光がペトロの涙を照らしています。そして主イエスは、朝日の中十字架に向かって進んで行かれます。復活の朝に向かって進んで行かれます。
ペトロは、この涙の中から立ち上がらせられました。「ペトロ=岩」と、主がつけてくださったあだ名のとおりに、岩のごとくの信仰に生きる者とされていきます。使徒とされ、教会の指導者となりました。繰り返しこの自分の罪の姿を語りました。四つの福音書がすべてこのペトロの姿を書き記すほどに、語り続けました。主はすべてをご存知だった、主はすべてを赦してくださった、主は私に命を与えてくださった、主はこの私を岩とし、世の光としてくださったと。
聖餐にあずかります。罪を悔いる涙が赦しの光に照らされます。罪赦され、光とされた主の子どもたちが、共に主の赦しといのちにあずかります。まだこの聖餐を受けることのできない方々は、どうか私たちの顔を、姿を見てください。光に照らされて光となっている者たちの顔を、姿を、見てください。そしてどうか洗礼を受けて私たちの仲間となってください。共に光となってください。共にこの暗い世を照らす光となってください。
「ひかりひかり」は、私だけの歌ではありません。私たちの歌です。「わたくしたちは、ひかりのこども」です。世の光です。主イエスに照らされ赦され、命を与えられて世の光です。この暗い世を、夜明け前の最も暗い夜になってしまったかのような世を、私たちは照らすことができるのです。冷たい世界を、あたためることができるのです。「あかるく、げんきに、ただしく」夜を照らし、あたためることができるのです。