2023年10月1日 世界聖餐日礼拝説教「死では終わらない」 東野尚志牧師
詩編 第88編10b~19節
ヨハネによる福音書 第11章1~16節
10月最初の主の日を迎えました。4月から始まった2023年度の歩みも、すでに半分が過ぎたことになります。5月の初めには、3年間にわたって猛威を振るった新型コロナウイルス感染症が、季節性インフルエンザと同じ5類に引き下げられました。教会では、なお慎重に様子を見ながら、4年ぶりに開催された泊まりがけの夏期修養会を一つの区切りとして、長らく休んでいた愛餐会を再開することにしました。先月、9月の第2主日、青年会の主催による敬老の集いが、その皮切りになりました。まだ少し不安はありましたけれども、蓋を開けてみれば、ざっと数えて50人ほどの方が愛餐会に参加してくださいました。階下のホールで、8つほどに分けられたテーブルを囲んで、美味しいハヤシライスをいただきながら、久しぶりに会話が弾んだのです。
実は、この敬老の集いの愛餐会には、後日談があります。50人ほどの参加者があったとはいえ、ハヤシライスのもとが大量に残ったそうです。てっきり、青年たちが小分けにして持ち帰ったのかと思っていました。そうではなかったようです。先週の日曜日、私は、講壇交換で一年ぶりに聖学院教会に参りました。礼拝後の食事会のメニューはハヤシライスでした。懐かしい味でした。敬老の集いの準備をした青年たちの中に、聖学院教会の青年がおられ、その人を通じて、残った大量のハヤシライスのもとは、しっかり聖学院教会に引き取られていたのです。講壇交換の交わり以前に、水面下で、滝野川教会と聖学院教会がしっかりつながっていたことを知らされて、私は嬉しくなりました。食事を共にする交わりが、いよいよ戻ってきた。そんな実感を伴う楽しい出来事でした。
教会の中では、ようやくコロナを乗り越えつつある気分でいられても、社会全体としては、また、少しずつ感染者が増えていると報じられています。感染者の実数が把握されていませんから、ニュースだけではピンと来ないところもあります。けれども、同時にインフルエンザも流行り出して、学校の中には、学級閉鎖になっているところがあると聞きます。病院や施設の中には、また、面会が制限されるようになったところもあるようです。外に出ると、マスクをしていない人が増えていますから、不安を覚える人も多いと思います。コロナといい、インフルエンザといい、死に至るほど重症化することは少なくなったとはいえ、やはり高齢の方や、持病のある方は、気をつけた方がよいのだと思います。誰も、絶対大丈夫だなどということは保証できません。私たちの身近なところにも、病に苦しんでいる人たちがいるのです。
きょう、私たちに与えられた聖書の物語の中にも、一人の病人が登場します。ヨハネによる福音書第11章は、こんな言葉で始まるのです。「ある病人がいた」。11章の物語は「ある病人」の話として語り始められます。もちろん、すぐ続けてその名はラザロであると示されます。けれども、この物語の結びのところ、生き返ったラザロが、墓の中から出てくる場面でも、こんなふうに描かれています。11章の44節です。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」。「死んでいた人」が、主イエスによって呼び出されて、墓から出て来たのです。この物語の枠組みだけを見ると、「ある病人」が死んで墓に葬られたけれど、その「死んでいた人」が主イエスによってよみがえらされて墓から出て来た、という話なのです。確かに、それは、ラザロという特定の人に起こった出来事です。「ラザロの復活」の物語と呼ばれます。けれども、それをあえて、「ある病人」の話として語り始めることで、ヨハネは、これが私たち一人ひとり、私たちすべての者の物語であるということを、告げようとしているのではないかと思います。
若いときから病気ひとつしたことがなくて、元気で健康であることを誇らしげに語る人がいます。けれども、いつまでも病気と無縁でいられるわけではありません。年若くても病気にかかることはあります。年老いて、抵抗力が弱ってくればなおさらです。検査で隠れていた病気が見つかることもあります。手術をしなければならないこともあるでしょう。病気がよくなることもあれば、手を尽くしても回復しないこともあります。そして、何よりも確かなことは、どんなに健康な人でも、必ずいつかは死の時を迎えることになります。元気だから、いつまでも死なないということはありません。突然、何の前触れも無く死んでしまうこともあれば、長く患った末に命の火が消えていくこともあります。早い遅いの違いはあっても、人はこの世に生を受けた以上、必ず死ぬのです。死んで墓に葬られるのです。だから、この聖書に記されている出来事は、ただラザロだけのことではなくて、私たち一人ひとりの話です。この後、ラザロという名前が出てくる度に、それを自分の名前に置き換えて読んでも良いのです。そのクライマックスは、43節です。主イエスは墓に葬られたラザロに向かって大声で叫ばれます。「ラザロ、出て来なさい」。44節が続きます。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」。主イエスが「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけられた、そのラザロの名のところに、自分の名を重ねることができる。主イエスが、私たちの名を呼んで、死の眠りの中から呼び出してくださる時が来るのです。
ヨハネによる福音書の流れの中で見れば、この11章の物語は、前半のクライマックスと読んで良いと思います。主イエスは、これまで、さまざまな不思議な「しるし」によって、ご自分がどのような方であるかを示して来られました。ガリラヤでは、結婚の披露宴の途中で、ぶどう酒が尽きてしまったとき、水をぶどう酒に変えて祝福されました。病気で死にかけていた役人の息子を癒やされました。祭りの時にエルサレムに上られると、38年もの間、病気で伏せっていた人を立ち上がらせ、歩かせられました。またガリラヤ地方に戻って、主イエスの話を聞こうとして付いてきた五千人もの人たちに、わずか五つのパンと二匹の魚で有り余るほど十分に食事を与えられました。舟をこぎ出した弟子たちのところに、湖の上を歩いて近づかれ、風と波を鎮められました。そして、エルサレムの神殿の外の道ばたで、生まれながら目が見えず物乞いをしていた人の目を開かれたのです。一連のしるしの最後最大のしるしがラザロの復活です。自然を支配し、病を癒やされるだけではなくて、死んだ人をよみがえらせたのです。その噂が広く伝わり、エルサレムの群衆は、主イエスを歓呼の叫びをもって迎えることになります。しかし、その一方で、ユダヤ人の指導者たちは、最高法院を召集して、主イエスを殺すことを相談します。ラザロを生き返らせたことが、主イエスの十字架への道を決定づけたと言っても良いのです。
さて、ラザロには、マルタとマリアという二人の姉妹がいたことが告げられています。家族が住んでいたのはベタニアの村でした。エルサレムから東へ3キロほどのところにある小さな村で、エルサレムまで歩いて半時間ほどの距離でした。主イエスがエルサレムで活動されるとき、拠点とされた村ですから、マルタとマリアの家に泊られたこともあったと思われます。特に、マリアについては、「主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」と紹介されています。実際に、この出来事が記されるのは12章ですから、それを先取りするように記されていることになります。マタイやマルコ、ルカの福音書にも、同じ出来事と思われる記事が残されていますから、よく知られた伝承であったと思われます。ヨハネは、その伝承を受けとめながら、ラザロは「あのマリア」の兄弟なのだと紹介するのです。しかも、5節には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と記されています。主イエスとは家族ぐるみ、深い信頼と愛で結ばれた関係であったことが分かります。
そのラザロが病気になりました。どんな病気であったのかは分かりません。あっという間に悪くなって、命の危険にさらされたと思われます。最初の頃のコロナ感染症の悲劇を思い起こさせられます。なすすべもありません。マルタとマリアは、主イエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。そこには、主よ、早く来て弟を助けてください、という切羽詰まった願いが込められていたと思います。主イエスなら、すぐにそれを察して、駆けつけてくださるだろうと期待していたはずです。ところが、その知らせを聞いて主イエスは言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。「この病気は死で終わるものではない」。以前の口語訳聖書では、「この病気は死ぬほどのものではない」と訳されていました。文語訳の聖書では「この病は死に至らず」でした。しかし、私たちが既に読みましたように、この病気は、事実として死に至るのです。死ぬほどのひどい病気ではないということでもありませんでした。もしそうなら、主イエスの見立て違いということになります。ラザロは死んでしまうのです。マルタとマリアの悲しみはどれほどであったかと思います。
私たちは、まずは、この現実を、きちんと受けとめなければならないと思います。私たちも、この二人の姉妹と同じように、愛する者のために、主イエスに願い、祈り、求めることがあると思います。必死になって、神さまに癒やしを願い求めます。愛する者の命がかかっているのです。こんなに真剣に祈ったことはかつてなかったと思うくらい、神さまにすがりつくように祈り求める。ところが、一向に良くならない。神さまは聞いておられないのではないか、と不安になります。まるで、神さまに無視されているかのように、少しも事態は好転しない。いやむしろ、どんどん悪くなっていく。そしてついに、自分が願い、祈り求めたのとは違う結果になってしまうことがあります。そのとき、私たちの信仰は激しく揺さぶられてしまうのではないでしょうか。私たちの祈りが真剣であればあるほど、神さまに対する信頼が揺らいでしまいます。イエスさまは、本当に私の祈りを聞いてくださっていたのだろうか。神さまは、本当に私を愛してくださっているのだろうか。そんな疑いや迷いが生まれます。信じることに絶望してしまいそうになるのです。
けれども、ラザロの物語は私たちに告げています。5節にありました。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」。主イエスは、確かに、マルタを、マリアを、そしてラザロを心から愛しておられたのです。主イエスは愛する者たちの願いと祈りを、聞いておられなかったわけではありません。愛するラザロが病気だという知らせをちゃんと聞いておられました。けれども、動こうとなさらなかったのです。同じように、私たちの祈りが聞かれないとしても、それは、主イエスが私たちの祈りを聞いておられないからではないのです。主イエスはいつでも、私たちの祈りを聞いていてくださいます。ご自身の名によって祈られた祈りを、主イエスが空しくされるはずがないのです。主イエスは、マルタとマリア、そしてラザロを愛しておられたように、私たちのことも愛しておられます。この主イエスの真実と愛は、決して揺らぐことがありません。それでも、主イエスは動かれないことがある。動かないという仕方で、御心を行っておられるのです。私たちの祈りに応えておられるのです。
このとき、主イエスが弟子たちと一緒に滞在しておられたのは、ヨルダン川の向こう岸でした。10章の40節に、こう記されています。「イエスは、再びヨルダンの向こう岸、ヨハネが初めに洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」。このヨハネは、洗礼者ヨハネのことです。主イエスもその場所で、ヨハネから洗礼を受けられたと考えられます。そこから、ラザロが伏せっていたベタニア村までは、どんなに急いでも一日はかかります。そうであればこそ、取るものも取りあえず、急いで出かけてくだされば良かったのに、私たちはそんなふうに考えます。けれども、6節によれば、主イエスは、「ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間同じ所に滞在された」というのです。17節を見ると、その後、主イエスがラザロのところに赴かれた時には、ラザロは墓に葬られてすでに四日もたっていた、といいます。つまり、知らせを聞いてすぐに出かけたとしても、ラザロの死には間に合わなかったと思われます。主イエスはあえて、ラザロが死んで葬られた後、誰もがラザロの死を認めざるを得ないところで、ラザロのもとへ行かれるのです。ご自分が何をしようとしているか、分かっておられたからです。父なる神が何を望んでおられるかを、はっきりと受けとめておられたからです。
「この病気は死で終わるものではない」。そう言われた後、主イエスは続けて言われました。「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。すでに読みました第9章の物語において、主イエスが生まれつき目の見えない人の目を開いて見えるようにされたときにも、同じことが言われていました。弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねました。けれども、主イエスは言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。神の業が現れるためです。主イエスはそのとき、ただその人の目を癒やされただけではありません。その癒やしの出来事を通して、癒やされた人を信仰に導かれました。最初はどこの誰かも知らなかったのに、自分を癒やしてくださった方こそは、父なる神のもとから来られた方、救い主であることを信じて告白するようになりました。それによって、神の栄光が現わされたのです。
「この病気は死で終わるものではない」。この聖書協会共同訳の翻訳は味わい深いと思います。結果的に、ラザロの病は死に至ったのです。ラザロの病は死ぬほどのものであったのです。マルタやマリアの願いもむなしく、ラザロは死にました。けれども、死で終わるものではない、その先がある。ここですでに、主イエスは、死を超える命の祝福を約束しておられるのです。死によっても空しくなることのない愛の絆、死に勝つ神の力を現わそうとしておられるのです。主イエスがベタニア村に着いて、ラザロの葬られた墓に赴こうとされたとき、マルタは主イエスに言います。「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」。死んでから四日も経って、だれも、死という現実を動かすことができない、死の力の前に人間は全く無力であることを認めざるを得ないところで、神の力が現わされます。ラザロは、死の中から命へと呼び出されるのです。主イエスは「神の栄光のためである」と言われた後、続けて「神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。ヨハネの福音書において、主イエスが栄光を受ける、というのは、十字架に上げられることを意味しています。そして、主のお言葉通り、このラザロの復活の出来事は、主の十字架への道を決定づけることになるのです。いや十字架の死で終わらない、神の愛と真実を、主イエスは見ておられたのだと思います。
弟子たちは、主イエスが動こうとされなかったのは、身の危険を感じておられたからだと思ったかも知れません。ラザロの病を知らされても、動こうとされなかった主イエスが、三日目になって「もう一度、ユダヤに行こう」と言われると、弟子たちはそれをとどめるように言いました。「先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。主イエスの命が危険にさらされていることを、弟子たちも案じていたのでしょう。主イエスの言葉を聞いた後でも、まだトマスはとんちんかんなことを口にしています。「私たちも行って、一緒に死のうではないか」。それは勇ましい言葉のように聞こえますけれど、主が何をしようとしておられるのかが、本当は分かっていなかったのです。けれども、主は言われます。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」。少し分かりにくい言葉かもしれません。「この世の光」とは、世を照らす光である主イエスのことです。主が照らしてくださる昼間のうちに、なすべきことをしなければならないということでしょう。やがて、世の光である主が取り去れる夜が来るからです。
主は言われます。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」。主イエスは、ラザロを「私たちの友」と呼ばれます。「私の友」と言われたのではありません。聞いている弟子たちをも招き入れるようにして「私たちの友」と呼ばれます。この「友」という呼び名は、この後、15章において、印象深く繰り返される言葉です。主は言われます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である」。主イエスは、眠っているラザロを起こすために、ユダヤに行こうとしておられます。それによって、ご自分の十字架への道が決定づけられることをご存じの上で、友であるラザロを生かすために、ご自分の命を捨てようとしておられるのです。それほどに、主はラザロを愛しておられ、マルタとマリアを愛しておられ、また弟子たちを愛しておられました。その同じ愛で、主イエスは今、私たちをも愛していてくださいます。主は私たちのことも、「友」と呼んでくださるのです。
このとき、ラザロは既に死んでいました。けれども、主イエスは、ラザロは眠っていると言われます。確かに、死は眠りにたとえられます。朝になっても目覚めることがない眠りとして、永眠、永遠の眠りと呼ばれることもあります。けれども、この眠りからも覚める時が来るのです。
死が眠りであるということについて、私には忘れられない言葉があります。今から9年前、2014年の夏、加藤さゆり先生が86歳で天に召され、鎌倉雪ノ下教会で葬儀が行われました。加藤さゆり先生は、夫である加藤常昭先生と共に、1997年3月末で隠退されるまで26年間、鎌倉雪ノ下教会の教師として仕えておられました。私と妻は、お二人の最後の1年半の間、一緒に鎌倉の教会にお仕えして、その後を引き継ぎました。さゆり先生は、既に、鎌倉におられた頃から、舌がんを発症しておられました。隠退後も含めて5回の手術を繰り返して舌を切り刻み、後遺症のために口の中の痛みに耐え続けておられました。厳しい病の末に、さゆり先生が天に召されたとき、私たちは既に鎌倉の教会を辞して、聖学院教会に転任しておりましたけれども、妻と一緒に、久しぶりに鎌倉雪ノ下教会の会堂に足を踏み入れて、葬儀に参列しました。
とても慰めに満ちた葬りのときでした。前夜の祈りの感話も、葬儀の説教も、また故人の思い出を語る言葉にも、深い愛が溢れていました。しかし、その中で、何よりも私の心に深く響いたのは、弔電披露のときに紹介された一通のメールの言葉でした。ハイデルベルク大学の実践神学教授であったクリスティアン・メラー先生から届いたメッセージです。加藤先生の手で日本語に訳されて、朗読されました。その一部を紹介します。
「愛する加藤さん、悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。 神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再びみ手に取られ、こう呼びかけてくださるためです。『起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ!』と。
「さあ、起きなさい、甦りの朝だよ」。そう言って、主イエスに名を呼ばれ、起こしていただくために、私たちは眠りにつくのです。主は言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。私たちの人生も、死で終わるものではありません。死を突き抜けて、死の向こうに、新たな命が約束されています。神が栄光を現わしてくださり、十字架と復活の主、栄光の主によって、眠りから起こしてくださる時が来る。主イエスの愛は、死によっても断ち切られることなく、私たちに注がれ、私たちを包んでいます。死を超えて、主は私たちと共にいてくださいます。備えられた聖餐の食卓を通して、共に主の現臨にあずかり、死を超える命の祝福、救いの糧を豊かに味わいたいと思います。