2023年1月1日 新年礼拝説教「見よ、すべてが新しくなった」 東野尚志牧師
イザヤ書 第43章18-19節
コリントの信徒への手紙二 第5章16-21節
主の年2023年の元日を迎えました。2022年は過ぎ去り、新しい年になりました。「新年」というのは、不思議な魅力を持った言葉であると思います。12月31日から1月1日、年末から年始へ。流れている時間が変わるわけではありません。それなのに、昨日までとは何かが違います。何でも「初めて」という字をくっつけます。例えば、「初日の出」と言うのです。毎朝、同じように日が昇るのに、元日の朝の太陽だけは特別扱いです。今朝はお天気が良かったので、「初日の出」を見た人もあると思います。清々しい気持ちになります。何か元気が出るような気がする。それを見るために、わざわざ高い山に登る人たちもいるのです。同じ太陽なのに、1月2日の日の出を見ても、もうあまり有り難くはありません。
「一年の計は元旦にあり」と申します。気持ちを入れ替えて、新しい決意と望みをもって、一年の歩みを始めようとするのです。「今年こそは」という思いを込めて、新しい年を祝う。そこには、新しさを求める願いと祈りが込められているように思います。私たちは、新しくなりたいのです。昨日までのことは忘れて、新しくやり直したい。けれども、考えてみれば、私たちは毎年同じことを繰り返しているのではないでしょうか。ひと通り初めてのものを経験し終えると、やっぱり、いつもと同じ、日常の生活が始まります。年が改まっても、結局、何も新しくなってはいない。全ては古びていく。日が改まっても、年が改まっても、自分自身が本当に新しくならない限り、肝心なところが変わらないのです。いや、本当のところは、変わらないどころか、私たちは、確実に古びて行くのです。
しかしながら、聖書は私たちに告げています、「古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」。本日の御言葉として与えられたコリントの信徒への手紙二の第5章17節後半の言葉です。「古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じた」。新しい翻訳の聖書でこの箇所を読んで、少し違和感を抱いた人もおられるのではないかと思います。昨年度の終わりまで、私たちが礼拝で用いていた口語訳聖書は、次のように訳していました。「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。この方が、耳によく馴染んでいるのではないでしょうか。「見よ、すべてが新しくなった」。私自身もこの方がしっくりくるので、きょうの説教題は、口語訳聖書の言葉から取りました。「すべてが新しくなった」。それは、年が明けたからというのではありません。時間的な新しさではないのです。時間的よりは、むしろ、質的な変化を表す言葉が用いられています。どんなに時間がたっても、決して古びてしまわない質的な新しさがあるのです。
口語訳聖書の方がしっくりくると言いましたのは、「見よ」という言葉をちゃんと訳しているからです。聖書の原文を見ますと、ここには確かに、「見よ」と訳すべき小さな言葉が記されています。今から36年前に出た新共同訳聖書は「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と訳しました。「新しいものが生じた」という翻訳は、すでに新共同訳聖書から採用されていたわけです。けれども、新共同訳では、「見よ」と訳すべき小さな言葉が全く無視されていました。そこで恐らく、新しい翻訳では、「新しいものが生じた」という訳し方を受け継ぎながらも、そこに「まさに」という言葉を加えることで、間違いなく、確かに、という強調の意味を表そうとしたのだと思われます。けれども、やはり私は、「見よ」という言葉の持っている力強さ、驚きと感動を大事にしたいと思うのです。
英語の伝統的な聖書は、“behold”と訳しています。新しい聖書の中には、“behold”ではさすがに古いと感じたのか、“see” と訳したものもあります。文字通り、「見よ」という意味です。あるいは、英語圏でよく読まれている新しい翻訳の聖書は、古いものと新しいものの対比がよく分かるように訳しています。“the old has gone, the new has come!” “behold”とか “see”という言葉用いられていませんけれども、“the new has come”の後に、びっくりマーク(!)、エクスクラメーション・マークがついています。まさに、そこには、驚きと感動があるということを、分かりやすく現わしているのです。
「見よ、すべてが新しくなった」。「まさに新しいものが生じた」。ここには、不思議な新しさに出会った人の驚きが表われています。それまでに経験したことのない新しさとの出会い。この手紙を書いている使徒パウロにとって、それは、思いがけない突然の出会いとして生じました。キリストの教会を迫害するために、ダマスコへと出かける途上で、パウロは復活された主イエスの声を聴き、キリストと出会いました。その出会いが、パウロの人生を大きく変えてしまいます。
だから、パウロは、この新しさについて、驚きと感動をもって語るのです。「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」。
「キリストにある」と訳されているのは、パウロが特に大切にした表現です。英語で言えば、“in Christ”です。キリストの中にある、ということです。「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」。ここは、口語訳聖書もほとんど同じでした。“in Christ”、「キリストにある」という表現を、独特な言葉で現わしたのは、新共同訳聖書です。こんなふうに訳しました。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」。“in Christ”、ギリシア語では「エン・クリストー」ですけれど、これを「キリストに結ばれる」と訳すのは、明らかに意訳です。だから、聖書協会共同訳では、意訳を避けて「キリストにある」としました。形の上では、口語訳聖書に戻ったような感じです。けれども、この新共同訳の大胆な意訳は、ここで言う「新しさ」が、キリストと結ばれることによって、キリストとの結びつきの中で造られる新しさだということを、はっきり言い表したのです。
「キリストと結ばれる」という言葉は、何と言っても、「洗礼」の出来事を思い起こさせます。この連想は、間違っていないと思います。洗礼を受けてキリストと結び合された。それは、まさしく、新しい創造なのです。洗礼を受けてキリスト者になるということは、キリストに結ばれて新しく造られるということです。すべてが過ぎ去り、古びて行くこの世のさだめの中にあって、洗礼を受けるということは、私たちの人生の中に、確かな、決定的な、座標軸の原点が打ち込まれるようなことです。キリストに結ばれた。その事実が、決して動くことのない、私たちの人生の中心になるのです。
私たちは、人生の中に、いろんな区切りを持っています。人生の節目と言ってもよいでしょう。生まれた時、入学や進学の時、20 歳になる時、就職、あるいは、結婚、出産、それに、転職、退職。さらには、大切な人の死、そして最後は、自分自身の死です。さまざまな節目を刻みながら、最後は、自分自身の人生の終わりを迎えるのです。途中、いろんな節目を重ねながらも、私たちの命は続いています。ところが、この人生の旅路の中に、ひとつの決定的な区切りが打ち込まれたのです。洗礼を受けた。キリストと結び合わせられた。この区切りは、私たちの生涯をはっきりと、二つの時に分けてしまいます。パウロは、しばしば「かつて」と「今」という言い方で、この断絶を言い表しています。ここもそうです。 16節はこのように始まりました。「それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」。かつては、キリストを「肉に従って」知っていた。しかし、今は、もうそのような知り方はしない、と言うのです。
キリストをどのように知るのかと、いうことが大事なのです。キリストをどのように知るかということが、私たちの人生を「かつて」と「今」というふうに、くっきりと二つに区切ってしまうほどに重大なのです。パウロは、ダマスコ途上において、よみがえられたキリストと出会う前にも、イエスという人のことは良く知っていたはずです。直接出会ったことがあったかどうかは分かりません。しかし、よく知っていたのです。言葉にも業にも力のある預言者でした。しかし自らを神と等しい者として、神を冒瀆した罪に問われた人物。律法違反で訴えられて、結局は、ローマ帝国に対する反逆の罪に問われ、十字架にかけられて処刑された男。木にかけられたということは、ユダヤの律法に従えば、神に呪われた者です。そのような神に呪われた者を、神の子・救い主として宣べ伝えている者たちがいる。それは、律法を重んじるファリサイ派に属していたパウロにとって、許しがたいことでした。だからこそ、パウロは、徹底的に、キリストの教会を迫害したのです。いずれにしても、パウロは以前から、イエスのことを良く知っていました。しかし、それは、肉に従う知り方であったと言うのです。
私たちも、イエス・キリストという名前については、教会に来る前から知っていたのではないでしょうか。もちろん、その知り方は、ユダヤ人であるパウロとは違っていたと思います。神に呪われた者としてよりも、むしろ、逆に、神に従った偉大な人物として知っていたのだと思います。いつも差別される弱い者たちの側に身をおいて、苦しむ者たちを愛し続けたヒューマニスト、人類全体に対する愛の実践家として。宗教的な権威や政治的な権力にこびることなく、毅然として、神の真理を貫いた教師として。あるいは、優れた説教者として。立派な指導者として。この世的な見方をすれば、イエス・キリストは、リンカーンやガンジーと並んで、偉人伝のシリーズの中に収められるのです。
もちろん、それは、必ずしも、間違った見方というわけではないと思います。けれども、パウロに言わせれば、それは肉に従った見方だということになります。肉による見方、すなわち、人間的な見方に過ぎない。結局は、自分たちの願いを読み込むようにして、美しく理想的に造り上げられた偉人伝に過ぎないのです。もちろん、そのような偉人伝を読んで、イエス・キリストの生き方に感動する人はたくさんいるでしょう。その生き方にならおうとする人たちも多くいるかもしれません。しかし、それによって、洗礼を受けようと思う人は生まれて来ないのではないでしょうか。私たちが、信仰を告白して洗礼を受けずにいられないような、イエス・キリストの知り方。それは、肉による知り方とは、全く違う次元における、イエス・キリストとの出会いによるのです。
パウロが、コリント人への第二の手紙5章の16節において、「それで、私たちは、今後」と語り始めたとき、特に「私たち」という言葉を強調して述べています。「他ならぬこの私たちは」。そういうニュアンスが込められているのです。どういう私たちでしょうか。それは、その直前の、14節と15節において明らかにされている「私たち」です。こうあります。「事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです」(14-15節)。つまり、この「私たち」は、「キリストが、この自分たちのために死んでくださった」という、キリストの死の意味を知っているのです。そして、そこに現わされたキリストの愛によって、捕らえられているのです。
パウロは、ガラテヤの教会に宛てた手紙の中でこう述べています。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木に掛けられた者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ3章13節)。確かに、キリストは十字架の木にかけられました。神に呪われた者なのです。しかし、それは、本来、神に背いた私たちが受けるべき呪いを、私たちに代わってご自身に引き受けてくださった、そういう贖いの死であったということを、私たちも知りました。神に背き、神と敵対関係にあった私たちを、神と和解させ、神の子とするために、キリストは十字架にかかって、私たちの罪の赦しを成し遂げてくださったのです。それゆえ、パウロは、今日の聖書の結びの5章21節にもはっきりと記しています、「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです」。キリストは、私たちにとって、単なる生き方の模範ではありません。ただの教師でもありません。私たちの贖い主、救い主です。このキリストに結ばれて、私たちは、キリストと共に死んだのです。それゆえに、キリストと共によみがえりの命の中で新しくされるのです。
「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです」。私たちが本当に新しく生まれるためには、古いものが過ぎ去らなければなりません。古いものは死んでしまわなければならないのです。私たちは、自分の決心によって、あるいは、自分の努力によって、新しくなるのではありません。それは、新年の新しさがいつまでもつのかを考えてみれば、良く分かると思います。キリストと共によみがえりの命に生かされるためには、キリストと共に死ななければならないのです。けれども、私たちはしばしば、一方で新しくなることを望んでおりながら、いざとなると、大きな変化を前にして尻込みすることがあるのではないでしょうか。新しくなりきれないのです。いつまでも、古い自分を引きずってしまうのです。
私たちはどうすれば良いのでしょうか。パウロは、それを「新しい創造」と呼んでいます。「新しく造られた者」と呼ぶのです。最初の創造の時、天地が造られ人間が造られた時に、誰もその御業を見たものはないように、創造は、神の業です。私たちは、自分で自分を新しく造ることはできないのです。私たちは、何とかして、自分の性格を変えたいと思い、心に描いた理想的な信仰者の姿に近づこうと願います。柔和で、やさしく、思いやりがあって、全ての人から愛されるような人間になりたいと思うのです。それは、何も自分が幸せになりたいためだけではありません。キリストの証しを立てたいと願っているのです。キリストを信じることによって、私はこんなに変わりました。そういう証しが立てられたら、どんなに素晴らしいだろうかと思います。けれども、現実は、なかなか変わりません。焦りばかりが先に立って、空回りしてしまいます。そして、ますます、落ち込んでしまうか、諦めてしまうかのどちらかです。
けれども、聖書ははっきりと言うのです、「これらはすべて神から出ています」。この新しさは、神から来る。神が働いておられるのです。私たちをキリストにあって新しく造るために、神が働いておられる。だからこそ、パウロは、「見よ」と言うのです。私たちは、自分で何かをしようとする前に、まず、ちゃんと見なければなりません。神が働いておられることを。神が私たちのために何をしてくださったのか。そして、私たちに何を求めておられるのか。この救いの出来事の一部始終を、しっかりと見つめなければならないのです。
パウロは18節で続けてこう述べています。「これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました」。ここに、「和解」という言葉が繰り返し出てきます。続く19節も、同じことを言い換えているのです。「つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです」。「和解」という言葉を、ある日本語の聖書では、「よりを戻す」と訳しています。よれてねじれてしまった関係を元に戻すことです。本来は、神によって造られた私たち人間です。神の栄光をほめたたえるために、そして、神の栄光を照り返すために、私たちは神によって、神にかたどって造られたのです。それにもかかわらず、私たちが自分の栄光を求め、自分の喜びのために生き始めたとき、中心がずれてしまいました。神との関係がよれてねじれてしまった。このよりを戻して、私たちが再び、神の御前に立つことができるように、神は、キリストにおいて、私たちの間に立たれたのです。それが、新しい創造としての和解の業です。そのために、御子は、この世にお生まれになりました。そして、私たちと同じ人間として地上を歩み、十字架におかかりになった。このキリストの十字架において、神は、私たちの罪を取り除き、和解の業を成し遂げてくださいました。
19節は、原文に忠実に直訳的に読むと、まず、「神はキリストのうちにおられた」と書いてあります。そしてそれを説明するように、「世をご自分に和解させつつ」と続くのです。和解の業。それは、紛れもなく、あの十字架をさしています。あの十字架のイエス・キリストの中に、神がおられた。神は、十字架において、天地を創造するにまさる力をもって働いておられたのです。ご自身の独り子を罪人らの手に引き渡し、十字架の死に引き渡す。それが神の力です。私たちの罪のために、罪とかかわりのない方を罪とする。それが十字架において現された驚くべき神の力なのです。だから、私たちは、この十字架のキリストをこそ、しっかりと見つめなければなりません。十字架において、神が働いておられる、私たちを義とするために、ただ神だけが、力強く働いておられるのです。
そして、この十字架のもとで、私たちは、新しい使命を与えられます。和解の福音が私たちに委ねられたのです。ここにこそ、新しく造られた私たちの姿があると言ってよいのではないでしょうか。キリストにある新しさは、キリストの使者としての姿に焦点を結びます。私たちがよりやさしい人間になるとか、思いやりのある人間になるというような、私たちの願いの中にではなくて、神の召しの中に、私たちの新しさがあるのです。パウロは言います。「こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい」。「キリストに代わってお願いします」。それは、おこがましいような、恐れ多いような言葉です。けれども、「キリストに代わって」と訳されている言葉は、15節で「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」という時の「ために」と同じ言葉です。キリストが私たちのために、私たちはキリストのために。ここに、キリストに結ばれて新しく生まれた者の生き方があるのです。
キリストの使者として、キリストによってこの世界に遣わされた全権大使として生きる。それが教会です。ここに繰り返し出てくる「私たち」というのは、教会のことだと言ってよいのです。洗礼を受けてキリストと結ばれることによって、一人ひとりがこの「私たち」の一員とされます。キリストをかしらとする教会のひとえだとされるのです。この教会から遣わされて、私たちは、それぞれの家庭において、職場において、あるいは、学校において、キリストと結ばれた新しい人として生きるのです。キリストにおいて、キリストによって神と和解させていただいた。その喜びを証しする者として生かされ、用いられるのです。
主の年2023年、私たちの地上の歩みに、一つの節目が刻まれるこのとき、キリストが与えてくださる新しさの中にしっかりと立ちたいと願います。キリストは私たちを、古びることのない、光栄ある新しさへと招いてくださいました。主の召しを受けて、主の御前に集った皆さま、お一人びとりの上に、心より祝福をお祈りいたします。
神さま、キリストの愛が私たちを捕らえて離さない、なんという有り難い御言葉であろうかと思います。私たちが必死にしがみつくのではなくて、キリストの愛が私たちに迫り、私たちを駆り立て、私たちを捕らえて離さない。十字架の傷を刻んだ主の御手によってしっかりと捕らえられ、主の愛の中で新しくされて、私たちも愛の証しに生きる者となることができますように。それぞれが、主によって遣わされた者としての自覚をもって、それぞれの持ち場につくことができますように。自分の好みに任せて主を知っているつもりになることなく、今、この礼拝において現臨される十字架と復活の主をこそ、証しし、伝えていくことができますように、私たちを強めてください。主にある新しさ、主に結ばれた新しさの中に、喜びをもって生きる者とならせてください。主の御名によって祈ります。アーメン