2025年1月5日 主日礼拝説教「主イエスに向き直るとき」 東野尚志牧師

出エジプト記 第34章29~35節
コリントの信徒への手紙二 第3章12~18節

 主の年2025年の最初の主の日を迎えました。新しい年の最初の主日、こうして共に主の前に集い、新年最初の主日礼拝に連なることができた幸いを、神さまに感謝します。新しい年の私たちの歩みが、主なる神さまのご計画によって導かれ、主の御業を行うものとなるようにと願います。そのためにも、今、私たちの心と体を、主に向けて整えることから始めたいと思います。

 今日の新年礼拝の説教題を、「主イエスに向き直るとき」といたしました。「主イエスに向き直る」。それは、端的に、礼拝の姿勢を表している言葉であると言ってもよいと思います。私たちは、まさに今、主に向き直る、そういう時を過ごしているのです。いや、私は、年が明けてからずっと、いつも主なる神に心を向けて歩んできた。だから、今さら改めて向き直る必要はない。そう言い得るとしたら幸いです。けれども、私たちの日々の歩みを、神さまの目によって点検して頂くならばどうでしょうか。年が明けて、一週間にも満たない歩みであっても、私たちはしばしば、主なる神を見失ってしまいます。この世の付き合いに心煩わされ、さまざまな出来事に心ひかれて、主なる神の前から迷い出てしまいます。こうして礼拝に連なるとき、感謝と共に、悔い改めを迫られるのです。
 ここで、今改めて、主に向き直ることが許されているということ。それは、私たちにとって、さらに大きな幸いなのではないかと思います。改めて、主に向き直って、そこから新しく歩み始めることを許されているのです。もちろん、私たちは日々の歩みの中でも、折りに触れて、それぞれの祈りの中で、主に向き直るのだと思います。しかし、そのような毎日の歩みを、あたかも前から後ろから支え育むようにして、七日ごとに礼拝の日が巡って来ます。主の日ごと、礼拝から礼拝へと導かれながら、新しい年の初めに、志新たに、主に向き直る。それは、神さまの深い憐れみによることではないかと思います。私たちはいつでも、主に向き直ることの中から、つまり、礼拝の中から、新しく始めることができるのです。

 「主イエスに向き直るとき」。この言葉は、先ほど朗読した新約聖書の中から取りました。コリントの信徒への手紙二の第3章16節に、こうあります、「しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます」。ここで、「向く」と訳されている言葉は、ただ気まぐれに「向く」というのではなくて、向きを変えることを意味します。「振り向く」「向き直る」「立ち帰る」と訳されることもあります。聖書協会共同訳のひとつ前、新共同訳聖書では、「向き直る」という訳語を採用していました。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」。「主の方に向き直る」という言葉の持つ味わいを、大切に受けとめたいと思いました。
 ここで言う「主」というのは、新約聖書としての分脈から考えれば、「主イエス」を指していることは言うまでもありません。ですから、「主に向く」というのは、「主イエスに向かって、身体ごと向き直る」、そういう、大きな動きを含む表現だと言ってよいと思います。「向き直る」。それは、「悔い改める」という言葉の類語としても用いられます。私たちは、今、この礼拝において、身体全体、いや身体だけではなくて、思いも、心も、私たちの存在の全てをもって、主イエスの方に向き直るのです。私たちの主であり、救い主である御方のもとに立ち帰って、そのお姿を仰ぎ見る。そういう礼拝の場所にしっかりと立つことから、新しく始めるのです。

 ところで、ここにひとつ、謎のような言葉が記されています。16節後半の言葉です。主の方に向き直れば、「覆いは取り去られます」とあります。その「覆い」というのは何でしょうか。16節の少し前の所、13節にはこう書かれています。「モーセが、やがて消え去るものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いを掛けたようなことはしません」。この手紙を書いているパウロは、モーセについて書かれた旧約聖書の物語を下敷きにしながら語っているのです。出エジプト記の第34章に、モーセにまつわる、ひとつの物語が記されています。先ほど、合わせて朗読した旧約聖書の箇所になります。
 今から3千年以上前、新約聖書の時代から見ても千二百年ほど前のことになります。モーセは、神さまの召しを受けて、エジプトの奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を解放するために、ファラオのもとに遣わされました。エジプトの王ファラオとの間で十度にわたる交渉とその都度の大いなる災いを経て、ついに、エジプトの王はイスラエルを解放せざるを得なくなりました。民を率いて、エジプトを脱出し、紅海を渡って砂漠の旅を続けたモーセは、神の召しを受けて、ひとりシナイ山に登りました。モーセは、シナイ山で、四十日四十夜、主なる神と共に過ごしました。そして、神さまとの契約の言葉である十戒をいただいて、その言葉を刻んだ二枚の石の板を抱えるようにして、山から降りてきました。ところが、主なる神と話をしている間に、モーセ自身も知らないうちに、その顔の肌が、光を放つようになっていたというのです。面白いことだと思います。神さまの栄光に照らされて、モーセの顔も輝くようになったのです。イスラエルの民は、モーセに近づくのを恐れました。それでモーセは、主の前に行って主の言葉を聞く時と、幕屋から出て来て、聞いたことを人々に告げる時以外は、いつも顔に覆いを掛けるようにしたというのです。

 モーセが自分の顔に覆いを掛けたのは、旧約聖書の文脈の中では、明らかに、イスラエルの民が恐れることのないように配慮したということであったと思われます。ところが、パウロはそれを、独特な仕方で解釈して見せるのです。つまり、モーセが顔を覆いで隠したのは、消え去るべきものの最後を見られないためだ、と言うのです。神さまと語り合ったことでモーセの顔が輝いたのは、神の栄光を映しているわけです。たとえはよくありませんが、たき火に当たって顔がほてっているようなものです。たき火の前から離れれば、ほてりはおさまります。同じように、モーセの顔の光は、モーセの顔そのものが光っているのではなくて、神の栄光によって照らされた名残ですから、時が過ぎれば、徐々にその顔から消えて行ってしまうわけです。それを見られないために覆いを掛けたというのです。何となく、私たちが読むと、こじつけの議論のようにも聞こえます。しかし、そういう解釈をして見せることによって、パウロは何を言おうとしているのか。そこが、大事なところだと思うのです。
 古い契約もまた、栄光に満ちたものでした。なぜなら、それもまた、神さまご自身が与えてくださった神の言葉であったからです。イスラエルが、神から特別に選ばれた民として、神の御心に従って歩むために、神ご自身が与えてくださった恵みの約束、それが古い契約、シナイ山で与えられた契約です。十戒を中心とするモーセの律法を伴う契約です。しかしながら、この契約は、決して、永遠の契約ではありませんでした。もちろん、初めから、古い契約であったのではありません。新しい別の契約が与えられることによって、古くなったのです。そうだとすれば、新しい契約を知らない者にとっては、それが、古くなったということも分からないのではないでしょうか。だから実際、ユダヤ教の信仰においては、今日でも、旧約聖書は決して、古い契約の書ではないのです。私たちの言う旧約聖書が、ユダヤ教徒にとっては、唯一のまことの契約の書です。新しい契約の書である新約聖書を認めていないのですから、モーセの律法はまだ古くなっていないのです。つまり、新しい契約が与えられたことによって、モーセの律法は古くなった、という事実が、「覆い」によって隠されているというのです。しかしまた、パウロによれば、モーセ自ら、わざわざ「覆い」によって隠す必要も無かったのだということになります。なぜなら、イスラエルの民の考えが鈍くなっていたからです。その思いが頑なになって、キリストにおいて成し遂げられた、神の新しい救いの御業が見えなくなっていたからです。その心に、覆いが掛かっていたからです。

 聖書の御言葉が朗読されるたびに、心に覆いが掛かっている。それは、ユダヤ人だけの問題ではないのだと思います。礼拝の中で、いつものように、繰り返して、聖書の御言葉が読まれます。御言葉を説き明かすために、説教が語られる。それにもかかわらず、聖書の御言葉が生きてこないとしたら、一体何が足りないのでしょうか。パウロは言います、「人が主に向くならば、覆いは取り去られます」。主の方に向き直れば、覆いは取り去られるのです。御言葉が証ししているイエス・キリストという御方を、御言葉に導かれて仰ぎ見る時に、初めて覆いが取り去られるのです。なぜこの日本でも、聖書は永遠のベストセラーのひとつでありながら、キリスト者の数は人口の1パーセントに満たないのでしょうか。聖書の読み方がどこか間違っているのではないかと思わせられます。聖書の言葉を読んでいながら、主に向くことがないからです。もしかすると、「キリスト教」という言い方が誤解を招くのかもしれません。キリストの教えを学ぶのだと思ってしまう。優れた教えを学んで、自分の心を豊かにしようと考える。立派な模範に習って、少しでもよい行いをしようとする。そういう倫理道徳的な次元に留まっている限り、どこまでも、「覆い」がかかったままなのです。
 聖書の言葉を通して、日常生活に生かせるような知恵の言葉を聞きたい。それなら、キリスト教でなくてもよいのです。仏教でも、論語でも、より良く生きるためのヒントを与えてくれるものであれば、それを利用して、自分を磨いていけば良い。しかし、その次元に留まる限り、聖書には「覆い」がかかっていて、真実が見えていないのです。パウロは言います。「人が主に向くならば、覆いは取り去られます」。私たちが礼拝において、真実に、主に向き直っているかどうか、礼拝が真実に、主イエスに向き直る時になっているかどうかが、厳しく問われているのだと思います。初めて教会に来た人たちも、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と告白するに至るような、生ける主のご臨在に仕える礼拝をささげているかどうかが問われているのです。自分の小さな枠組みの中で、知的な満足を求めている限り、あるいは、情緒的、感覚的な満足や慰めを求めている限り、礼拝は礼拝になりません。礼拝が真実の礼拝となる。その秘密は、私たちが主イエスに向き直ることにかかっているのです。今、主イエスご自身が、御言葉と御霊によって、私たちに身を向けていてくださいます。主イエスが私たちを招いていてくださいます。だからこそ、私たちもまた、ここで、主に向き直ることができるのです。

 主イエスに向き直るとき、私たちの心の覆いは取り去られます。御言葉を厳しい律法のようにしか聞くことができなかった、頑なな心が砕かれるのです。堅くこわばった心の皮を取り除かれて、柔らかな心で主イエスのお姿を仰ぐことができます。そして何よりも、主イエスに向き直るとき、私たちの罪は取り除かれるのです。なぜなら、私たちの前にお立ちくださる主イエスは、十字架の主だからです。主イエスは、私たちの罪を贖い、私たちを罪から解き放つために、十字架の上で血を流されました。そして、私たちが真実に神に生きるものとなるために、復活して、神の子たちの歩む道を切り開いてくださいました。十字架と復活の主のお姿を仰ぐとき、私たちは、罪に縛られた心の覆いを取り除かれて、健やかに主と向かい合うことができるのです。
 パウロは言います、「主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります」(17節)。主は霊です。私たちの肉の目で主のお姿を見ることはできません。けれども、み言葉の説教と聖餐の恵みを通して、主イエスは私たちにご自身を現してくださいます。主に向き直り、主の贖いの御業にあずかり、主の命をいただくことによって、私たちは生きるのです。律法の文字は、私たちの隠れた罪を暴きだし、私たちに死を宣告します。けれども、主は、私たちを生かす霊です。私たちは、この御方のもとで、罪から解放されて、本当の自由を与えられるのです。

 そして、御言葉はさらに進んで、主に立ち帰る私たちに対して、もっと大きな約束を与えています。主に向き直り、主の栄光を仰ぐ時、私たちも主と同じ姿に変えられていくというのです。「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです」(18節)。私たちが変えられていく。それは本当に、深い慰めと励ましに満ちた言葉ではないでしょうか。変わりたくても、なかなか、変わることのできない私たちなのです。けれども、私たちが変わろうと願うからではなくて、あるいは、私たちが変わろうと努力するからでもなくて、主に向き直るときに、私たちは変えられていくのです。主と同じ姿に変えられていくのです。
 ある人は、それを、太陽とヒマワリの花にたとえます。ヒマワリは、その名前が示しているように、太陽の光の照る方向に向かって花が回って行くと言われます。太陽の動きに連れて、あたかも、その姿を追いかけていくかのように、いつも太陽の方向に向かって、花を開いている。そうするうちに、自分自身も、太陽のような顔になったのだという。もちろん、それは、ひとつのたとえです。しかし、照り付ける太陽のもとで、一所懸命、太陽に顔を向けている。そんな花の姿に励まされるような思いがします。私たちも、霊なる主の姿を追い求めながら、ひと筋に、主に向かって咲き続ける花でありたいと、願わずにいられないのです。

 もしも、私たちが、変わりたいと願いながら変わることができないとすれば、それは、変わろうとする努力が足りないからではありません。そうではなくて、主に向くこと、主に向き直ることが足りないのです。礼拝に集うたびに新しい決心をしながら、それに破れていく歩み。自分自身の弱さを嘆きながら、私たちは、もっともっと強い信仰を持ちたいと願います。人は人と思いながらも、ついつい、隣り人の言葉や振舞が気になって、振り回されたり、心を乱されたりする。そんなささいなことに動じることのない、確かな信仰を持ちたいと願います。けれども、私たちは、自分の力で強くなるのではないのです。自分の努力で自分を変えていくのではないのです。パウロは言います、「これは主の霊の働きによるのです」。私たちが、主に向き直るとき、主の霊は、私たちの心に宿ってくださり、私たちの内に力強く働いてくださいます。それは、新しい創造といってもよいほどです。
 パウロは同じ手紙の中に、こういう言葉も記しています。「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です」(5章17節)。主の霊の働きによって、私たちは、神さまのものとして新しく造られるのです。変わりたいと願いながら、しかしどこかで、変わることを恐れている。一方で、私たちはそういう矛盾した心を抱えています。自分が変わること、変えられることを恐れ、北風にあおられる旅人のように、自我というコートを飛ばされないように、必死に握り締めているのです。しかし、主の霊は、律法の文字のように、私たちを無理やり変えようとするのではありません。そうではなくて、暖かい日の光の中で、旅人がコートを脱ぎ捨てるように、私たちを愛によって包み込んでくださる。冷え切って凍えていた私たちの心を包み込んで、伸び伸びとひと筋に神へと向かう素直な心を育んでくださる。既にそのような主の霊が、私たちの内に働きかけていてくださいます。私たちは、既に主のものとして召されているのです。

 主イエスに向き直り、主の霊の働きの中に包み込まれていく。そこから、すべてが新しく動き始めます。主の豊かな養いを受けて、神の子としての命が輝き始めます。その確かな始まりを告げる恵みのしるしが、この朝も、私たちの前に備えられています。主は今、恵みの食卓を用意して、私たちにご自身を向けていてくださるのです。私たちも喜んで、主にしっかりと向き直り、主と向かい合いながら、私たちを造りかえる、霊なる主の御業に、共々に与りたいと願います。