2025年1月1日 元旦礼拝説教「上にあるものを求めよ」 東野尚志牧師
コロサイの信徒への手紙 第3章1~4節
主の年2025年、新しい年を迎えました。とても静かに、また穏やかに新しい年を迎えたという印象を抱いています。テレビの番組では、有名な神社やお寺の初詣の様子を映し出していました。皆さんの中にも、天地万物の造り主である、ただ一人の生けるまことの神を知る前には、毎年、初詣に出かけていた人があるかもしれません。以前、鎌倉に住んでおりました頃、教会は鎌倉駅のすぐ近く、しかも鎌倉八幡宮へと続く若宮大路の向かい側にありましたので、正月の三が日は特別な賑わいを目の当たりにしました。12月31日の夜から元日の夕方まで、鎌倉駅の周辺から八幡宮のあたりまでの一帯が歩行者専用道路になりました。かなり広い範囲で車両の進入が制限されて、鎌倉の町なかは参拝客で溢れました。大晦日の夜から、着飾った大勢の人たちが、鎌倉駅に降り立ち、八幡宮へと向かう大きな流れが生まれます。元日の朝、元旦礼拝に出席する人たちは、その大きな人の流れを横切るようにして、教会に集まりました。駅から八幡宮へと続く大きな流れの中から外れるようにして教会に集まる方たちを、何とも頼もしく感じたものです。ここにこそ、まことの生ける神がおられる。そのことを証ししたいと願って、心熱くして元旦礼拝を行いました。
一年の初めの日、お集まりの皆さまと共に、元旦礼拝から教会の歩みを刻んでいけることを神さまに感謝します。ここに集われた皆さまお一人びとりの上に、父・子・聖霊なる神の豊かな祝福をお祈りいたします。
何ごとも最初が肝心だと言われます。古くからのことわざにも「一年の計は元旦にあり」と言われます。「計」は、計画の「計」、古くは「はかりごと」と読んだようです。「元旦」というのは、元日の朝のことです。皆さまは、それぞれに、元日の朝をどのように迎えられたでしょうか。新しい年の歩みについて、見通しや計画を立てることができたでしょうか。まだこれから、というところかもしれません。あるいは、元旦礼拝に出席するということからすでに、一年の計画が始まっていると言ってよいかもしれません。この一年も、礼拝から礼拝へと共々に力強く歩んで行きたいと願います。
「一年の計は元旦にあり」。もともとの出典は中国の文献のようですけれども、日本では江戸時代の中頃に、「一日の計は朝(あした)にあり、一年の計は元日にあり」という対句的な言葉として紹介されたようです。この場合、もちろん、「あした」というのは朝のことです。一日の初め、朝の時間にその一日の計画や心づもりをするのが大事であるように、一年の初めの日に新しい年の計画や心づもりを思い描くことを教えたのです。元日の朝だけではなく、この一日を通して、計画を立てようというのです。伝えられる中には、「一年のはかりごとは正月にあり、一月(いちげつ)のはかりごとはついたちにあり」という言葉もあります。いわゆる松の内なら間に合うかもしれません。
しかしまた、私たちは、一年、ひと月、そして一日という区切りの間に、もう一つの区切りがあることを知っています。江戸時代の人は知らなかった区切り方、つまり、七日ごとに一週間を区切る時の刻み方です。いにしえの言葉にならえば、「一週のはかりごとは、日曜にあり」と言ってよいかもしれません。週の初めの日、日曜日の朝に礼拝を守るということの大事な意味がそこにあると思います。今日はここに一緒に集まることができなかった人たちも、次の日曜日、1月5日の新年礼拝には集って、共々にこの年の最初の聖餐を祝うことができるようにと願い祈ります。私たちは、礼拝において、主なる神の前に立ち、神の言葉を聞くことによって、私たちが何者であり、どこから来てどこへ行こうとしているのか、ということを、繰り返し確認することができます。この年も、一週間ごとに、主の日の礼拝から主の日の礼拝へと導かれながら、神さまのご計画の中にある私たちの時を、大切に刻んでいきたいと思うのです。
一年の初め、ひと月の初めの朝、私たちは、主の御言葉を聞きました。「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」。ここに、主イエス・キリストに結び合わされた者の生き方が、鮮やかに描かれています。私たちは、洗礼を受けることによって、主イエス・キリストと一つに結ばれます。同じ手紙の第2章12節には、こういう言葉が記されています。「あなたがたは、洗礼によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」。洗礼を受けることによって、私たちは、キリストの死に合わせられ、キリストの復活に合わせられるのです。私たちは、キリストの死に合わせられて、キリストと共に葬られ、滅び行く古い罪の自分に死にました。そして、キリストを死人の中から復活させた神の力を信じて、私たちもキリストと共に復活させられ、神の子としての新しい命を生きる者とされました。だから、そのようにして、キリストと共に復活させられた者は、この地上のことに心引かれ、惑わされ煩わされるのではなくて、心を高く上げて、上にあるものを求めて生きなさい、と勧めているのです。キリストに結ばれた者、キリスト者というのは、まさに「上にあるもの」を求めて生きる人間のこと、そう言ってもよいのです。
それでは、御言葉が指し示している「上」というのは、一体、どこにあるのでしょうか。この手紙を書いている使徒パウロは、「上にあるものを求めなさい」という勧めにすぐ続けて、「上」という場所についてはっきり定義しています。私たちの中に、「上」という場所をしっかりと意識させるのです。1節をもう一度読みます。「あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」。私たちが求めるべき「上」、それは、決して私たちの進歩や、私たちの向上と結びつくような「上」ではありません。お互いがしのぎを削って、争い求めるような「上」ではありません。むしろ、私たちとは切り離された「上」です。私たちがどんなに努力しても自分の力では登っていくことができないような「上」。それは、「キリストが神の右の座に着いておられ」るところ、「天」と呼んでもよいと思います。キリストがおられる天を望み見つつ生きるようにと言うのです。
最初のクリスマスの夜、神の独り子である御子イエスは、天の父なる神のもとから降って、この地上に、私たちと同じ人間の一人として生まれてくださいました。そして、人として生きることの喜びや楽しみだけではなくて、むしろ、その悲しみや嘆き、憂いをことごとく味わわれました。そしてついには、私たちの罪のために十字架にかかられ、死んで墓に葬られました。陰府にまで降られました。地の底にまで降られたのです。キリストは陰府において、キリストを信じることなく死んだ者たちにも、命の言葉を聞かせてくださった、教会はそのように信じ、そのように教えてきました。洗礼を受けることなく死んだ者たちにも、主の救いの御手が届いていることに望みを託したのです。
それは、未信者の家族や友人を持っている私たちにとっても、大きな慰めと励ましを与えてくれる言葉である思います。キリストと出会うことなく、信仰を与えられることなく死んだ者たちのことも、最後は、陰府にまで降られた主の御手にゆだねることができるのです。もちろん、それに甘んじて、今、生きている間に、キリストを信じるようにと祈り願い証しすることを怠ってはならないと思います。命ある間に、キリストと出会い、救いに入れられることが、どれほど大きな喜びであり、慰めであるかを知っているならば、私たちは、自分自身のことだけでなく、家族や愛する者たちの救いを諦めてはなりません。そのために、主イエスは私たちに、執り成しの祈りを教えてくださいました。主ご自身が、今も、私たちのために執り成していてくださいます。だからこそ、私たちも愛する者たちのために、まだまことの救い主を知らないために、苦しみ嘆き、また争っている人たちのために、執り成し祈るのです。
それならば、主イエスは、今どこで、私たちのために祈っていてくださるのでしょうか。死んで、陰府にまで降られたキリストは、3日目に死人の中から復活されました。そして、愛する弟子たちにご自身の復活の姿を現されました。使徒言行録の第1章には、次のように記されています。「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」。主イエスが復活されたということは、今も生きておられるということです。神の独り子である主イエスは、私たちと同じ人間の一人となって、私たちと同じように、人として生きる苦難を身に負い、死をも味わわれました。しかし、神の御子が、死の中に留まり続けておられることはあり得ません。主はよみがえって、今も生きておられます。死の力を打ち破って、死から命へと至る救いの道を開いてくださったのです。
だからこそ、私たちは、死が最後の言葉ではないことを信じることができます。死がすべての終わりではないことを信じ望むことができます。洗礼によってキリストと一つに結ばれた者は、この世において、すでに永遠の命を生き始めています。復活の命を生き始めています。私たちがすでにいただいている永遠の命は、死によっても空しくされることはありません。地上の肉体が滅びたら、私たちの存在がすべて無になってしまうのではありません。終わりの日には、復活の体によみがえらされて、主の前に共に集う者とされる。そのための確かな保証として、今すでに、永遠の命を生き始めているのです。主イエス・キリストが、死人の中から復活して、今も生きておられるからこそ、主に結ばれている私たちも生きることができるのです。
死人の中からよみがえって、40日にわたって弟子たちに復活の姿を現された主イエスは、40日目に、弟子たちの見ている前で、天に上げられました。使徒言行録は記しています。「『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった」。主イエスは、せっかくよみがえってくださり、弟子たちに現れてくださったにもかかわらず、40日を経ると、天へと帰られました。後に残された弟子たちは、茫然と見送るしかありませんでした。そこに現れた天使が、弟子たちに言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる」。主の再臨の約束です。そして、それから10日後、共に集まり祈っていた弟子たちの上に、約束の聖霊が降りました。そして、弟子たちは力強く、福音を宣べ伝え始めたのです。
主イエスが天に帰られたとき、後に残された弟子たちは心細かったに違いありません。主のお姿を見ることができなくなったのです。それは、私たちの思いに通じるところがあるはずです。私たちも時々思うのです。二千年前の弟子たちのように、私たちも自分の目で主イエスのお姿を見ることができたら良かった。実際に主イエスのお姿を自分の目で見て、そのお声を自分の耳で聞いて、その衣に直に手で触れることができたら、私の信仰ももう少ししっかりしたものになったのではないか。もっと確かな信仰を持てたのではないかと思う。どうして、復活された主イエスは天へと帰ってしまわれたのか。なぜ、そのまま地上にいて、永遠に私たちのもとに目に見える形で留まっていてくださらなかったのか。直に主イエスのお姿に接し、その声を聞くことができたら、どんなによかっただろうかと思うのです。けれども、それは違います。主は、いつでも、どこにおいても、私たちと共にいるように、そのために、天に昇られ、父なる神のもとから、ご自身の霊である聖霊を送ってくださったのです。
先ほど、主イエスはどこで私たちのために祈っていてくださるのか、と言いました。主イエスは、今、どこにおられるのか、と問われたら、皆さんはどのようにお答えになるでしょうか。使徒信条の告白に基づいて言うならば、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にまでくだられた主イエスは、3日目に死人の中からよみがえって、天に昇られ、全能の父なる神の右に座しておられるのです。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをお審きになるそのときまで、主は天におられます。終わりの日の裁きのために再び降って来られるそのときまで、主は天におられ、父なる神の右におられるのです。使徒パウロは、ローマの教会に宛てた手紙の中で言いました。「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右におられ、私たちのために執り成してくださるのです」(ローマ8章33~34節)。
主イエス・キリストは、今も天におられ、父なる神の右の座において、私たちのために執り成していてくださいます。私たちは、主イエスを救い主と信じて、信仰を言い表し、洗礼を受けたにもかかわらず、なおも地上の歩みにおいて、迷うこと多く、疑うこと多く、多くの罪を重ねてしまいます。主イエスは、私たちと同じように、肉体をもってこの地上を生きてくださった方ですから、私たちの弱さをよくご存じです。十字架の犠牲によって私たちの罪を贖ってくださっただけでなく、深い憐れみをもって、今も、私たちのために執り成しを続けていてくださるのです。そして、この地上においては、ご自身の霊である聖霊によって、いつも私たちに寄り添い、私たちと共にいて、私たちを支え、励まし、導いてくださいます。私たちと共にある霊なる主が、私たちのために呻きながら執り成していてくださいます。だからこそ、私たちは、祈りの心を天に上げることができるのです。この地上にありながら、天に属する者として生きることができるのです。地上のものに心ひかれることなく、天に望みをかけて生きる者となるのです。
御言葉は告げています。「上にあるものを思いなさい。地上のものに思いを寄せてはなりません。あなたがたはすでに死んで、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているからです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」。私たちは、洗礼によって、古い罪の自分に死んで、決して古びることのない永遠の命を生きる者とされます。しかし、その命は、今は隠されているというのです。洗礼を受けたとしても、洗礼を受ける前と何も変わっていないように見えるかもしれません。確かに、何も変わっていないように見える。それは、隠されているからです。けれども、いつまでも隠されているのではありません。キリストの再臨のとき、キリストにあって新しく生まれた命が、キリストと共に栄光に包まれて現されます。キリストに結ばれた私たちの命が、キリストと共に輝き出るのです。
一年の計は元旦にあり、と申しました。新しい年の初めに、終わりの日の救いの完成を望み見ながら、終わりから今を生きる。その大いなる祝福の中に生かされていることを、共に喜び祝いたいと思います。この地上に生きている以上、心と体にさまざまな弱さを抱えながら、時には、肉体に大きたとげや重荷を与えられているかもしれません。年老いて行くことの不安もあります。けれども、私たちは、心を高く上げて、上にあるものを求め、終わりの日の救いの完成を望み見ることができます。主は今、天にいてくださり、私たちの目には見えません。しかし、目に見えない霊において、いつも、どこにあっても、主は私たちと共にいてくださいます。私たちの命と救いは、神の中にあるのです。これほど確かなことがほかにあるでしょうか。主の年2025年、121年目の歴史を開く滝野川教会と、そこに連なる私たち一人ひとりが、私たちの計画を包み込む、父なる神さまのご計画の中で、豊かに生かされ、用いられることを願い祈ります。新たな一年の歩みの上に、神の祝福を祈ります。