2024年12月24日 クリスマス・イヴ讃美礼拝説教「クリスマスの真実」 東野尚志牧師

詩編 第113編1~9節
ルカによる福音書 第2章1~20節
フィリピの信徒への手紙 第2章6~11節

 「グローリア イン エクセルシス デオ」。聖歌隊の賛美奉献において、繰り返し歌われた言葉です。ラテン語の言葉です。「グローリア」は「栄光」という意味で、英語の glory にあたります。「エクセルシス」は「非常に高いところ」を意味します。「デオ」は神を表す「デウス」の単数与格の形です。日本語にすれば、「いと高き所では、神に栄光あれ」となります。
 クリスマスの夜、羊飼いたちの前に現れた天使が、天の大軍と一緒になって神を賛美して歌いました。「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ」。この前半部分の歌を、ラテン語で表したのが、「グローリア イン エクセルシス デオ」ということになります。新約聖書の原文はギリシア語で書かれていますけれども、ローマの教会が影響力を持つようになると、教会の公用語はラテン語になりました。讃美歌もすべてラテン語で歌われるようになるのです。

 「ハレルヤ」、これはラテン語だと最初のhを発音しないので「アレルヤ」となりますが、もとは、旧約聖書が書かれたヘブライ語の言葉です。訳せば「主をほめたたえよ」となります。祈りや賛美の最後に唱和することの多い「アーメン」と同じように、聖書がいろんな国の言葉に翻訳される時にも、もとの音をそのまま残して伝えられています。世界中の国が、用いる言語は違っていても、「ハレルヤ」「アーメン」で通じるのです。
 聖歌隊が繰り返し歌いました。「グローリア イン エクセルシス デオ」、そして「ハレルヤ」。日本語にすれば、「いと高き所には栄光、神にあれ」「主をほめたたえよ」となります。主なる神をほめたたえ、天にいます神に栄光を帰する歌です。まさに、クリスマスにふさわしい歌だと言ってよいと思います。

 確かに、クリスマスは光にあふれています。主の来臨を待ち望むロウソクに火がともりました。皆さんの手元にも、小さなライトが配られています。昼間の明るさの中ではあまり目立ちません。けれども、夜の闇の中では、小さなあかりが頼りになります。礼拝堂の中にあるツリーには、電気がついていませんけれども、礼拝堂の裏手、中庭にあるツリーは、枝に張り巡らされたLEDのライトが光っています。大通りの側から見ることができます。聖学院のそれぞれの学校や園でも、外を歩く人に見えるように、イルミネーションが飾られています。このところ電気代が高騰して自粛気味かもしれませんが、少し前までは、自分の家の庭や壁、あるいは屋根の上まで、クリスマスのイルミネーションで飾り付ける家が多くありました。夜になって、町の中で何軒も光り輝く家が続いていると、遠くから見物に来る人もいるくらい話題になったりしました。
 どうして、クリスマスには、光を灯すのでしょうか。もしかしたら、飾り付けの豪華さを競い合っているだけなのかもしれません。けれども、そこには、闇に覆われたこの世界が、救いの光で照らされることを願う、そのような心の願いが現れ出ているのではないかと思います。この一年も、私たちは、深い闇を経験してきました。大地震に襲われて、ライフラインが断たれてしまい、電気も水もない中で寒い夜を迎え、体も心も凍えた人たちが多くありました。非常電源や蓄電池で、灯りが灯ったとき、どんなにか心強く感じられたに違いないと思います。


 けれども、この世の闇は、ただ夜の闇だけではありません。そこには人間の罪がどす黒く澱んだ闇があることを私たちは思い知らされています。戦争を引き起すのも、人間の心に潜む罪の闇です。他国の人たちの幸せを踏み躙り、命を奪っても、自分たちの権利や利益を守ろうとするところに、本当の愛はありません。政治や経済の世界にも、闇献金、裏金、闇バイト、いろんなところ罪の闇が絡みついています。救い主は、そのような罪の闇を追い払うまことの光として来られたのです。すべての罪の闇をご自身に引き受けて、十字架の死においてすべての闇を飲み尽くすようにして、復活の光を輝かせる救い主として来られたのです。
 クリスマスは、決して、それだけで独立し、完結したお祭りではありません。クリスマスは始まりです。この地上における神の救いの御業の始まりです。神の独り子がこの世に来られたとき、天の栄光とはまるで釣り合わないような、貧しく無力な幼子の姿で地上に宿られました。ベツレヘムの宿屋には場所がなく、外の家畜小屋で生まれ、家畜の餌を入れる飼い葉桶の中に寝かされました。それは、この救い主は、この世には宿るところがなく、人々から見捨てられ、十字架にかけられ、殺される運命にあることを象徴しています。飼い葉桶は十字架へとつながっているのです。クリスマスから、聖金曜日の十字架へ、そして、イースターへと、この世に宿られた神の御子の歩みは続いて行きます。クリスマスの降誕から始まった御子の地上のご生涯は、十字架へと貫かれ、さらには、死をも突き抜けて、復活、昇天と続くのです。

 先ほど朗読したフィリピの信徒への手紙の言葉は、最初の教会の人たちが歌っていた讃美歌だと言われます。教会の指導者であったパウロが、フィリピの教会の信徒たちに手紙を書き送ったとき、主イエスによる救いの出来事を描くために、讃美歌の一節を引用したのです。「キリスト賛歌」と呼ばれます。救い主イエス・キリストをほめたたえる讃美歌です。「道の歌」と呼ばれることもあります。救い主が辿られた歩み、その道行きを歌っているのです。このように歌い始めます。「キリストは 神の形でありながら 神と等しくあることに固執しようとは思わず かえって自分を無にして 僕の形をとり 人間と同じ者になられました」。ここには、飼い葉桶も、家畜小屋も描かれてはいません。ヨセフもマリアも登場しません。天使も現れなければ、羊飼いたちも出て来ません。けれども、確かに、ここにクリスマスの出来事が描かれていると言ってよいのです。
 「キリストは 神の形でありながら」と始まります。もちろん、「形」と言っても、神さまには、私たちの目に見えるような姿形があるわけではありません。誤解を恐れずに言えば、本質を同じくするという意味だと考えてよいと思います。ここは以前の口語訳聖書では、「キリストは 神のかたちであられたが」と訳されていました。小さなことのようですけれども、共同訳の表現に変わって、事柄が正確に伝わるようになったと思います。口語訳聖書のように、「キリストは 神のかたちであられたが」と過去形に訳してしまうと、かつては神のかたちであったが、そうではなくなったというふうに読めてしまいます。かつては神と等しいお方であったけれども、人としてお生まれになることによって、神ではなくなったという誤解を与える恐れがあるのです。しかし、この賛歌が伝えているのは、まさに、共同訳が述べているように、「神の形でありながら」です。神としての本質をお持ちのままで、人間として地上に宿られたのです。

 「神と等しくあることに固執しようとは思わず」とあります。これは、天の上で、父なる神と等しいお方として栄光と賛美をお受けになることに固執されなかったということです。「かえって自分を無にして 僕の形をとり 人間と同じものになられました」。クリスマスにおいて、驚くべきこと、考えられないようなことが起こりました。聖書の信仰においては、天地万物をお造りになった神と、造られたもの、すなわち被造物である人間の間には、決して超えることのできない一線があります。日本的な宗教のように、誰でも死んだら神になる、ということはありません。いやむしろ、造られたものに過ぎない人間が、神のようになろうとすることこそが最大の罪です。神は創造主、造り主であり、造られたものたちによって崇められ、仕えられるべきお方です。僕である人間は、神に仕えるものであり、お互いに仕え合うものです。決して、神のように自分が支配するものになってはならないのです。ところが、むしろ話は逆に進んでいます。神であり主であるお方が、神としての性質を持ったままで、仕える者、僕となられた。神さまの側から、越えられない一線を乗り越えて来られました。神の独り子が被造物の中に宿られ、私たちと同じものになられたと言うのです。
 クリスマスは、ただ愛らしい赤ちゃんが生まれて、楽しい、うれしい。神さまの特別な祝福を受けて、将来、私たちを救いへと導く立派な指導者が生まれたことを喜び祝う、ということではありません。偉人伝に描かれるような立派な愛の模範となる、愛の人が生まれた、ということではありません。神と等しくあり、主であるお方が、僕の形をとって、つまり、仕える者となって、私たち人間と同じものになられたというのです。本来は、創造者の側にあって、主として崇められるべきお方が、天上の栄光をかなぐり捨てるようにして、ご自身を低くして、この地上に降って来られたのです。私たち人間と同じものになられたのです。

 二千年前の最初のクリスマスの夜、神の独り子が、私たちと同じ人間のひとりとして、この地上に宿られました。そこから、救い主であるがゆえの苦難の生涯が始まりました。神の独り子であるのなら、天使と共に、栄光の内に現れて、その栄光を身にまとったままで、救いを成し遂げてくださればよかったのに、と思う人がいるかもしれません。けれども、私たちに染みついている罪を取り除くためには、罪のない神の御子が、罪を別にして私たちと同じ人間となって、私たちの罪をすべて背負ってくださり、私たちの身代わりとなってその命を犠牲にしてくださる以外に救いの道はなかったのです。
 旧約時代のように、動物の血を注いで、罪の贖いとすることは、毎年、繰り返されなければなりませんでした。動物の血、すなわち、動物の命で、完全に人間の罪を償うことはできないからです。しかしまた、自分自身も罪を負っている人間が、他人の罪を背負って身代わりになることはできません。本当に身代わりになることのできる方は、私たちと同じ人間でありつつ、罪のない方でなければならなかったのです。だからこそ、栄光の主が、その栄光を捨てて、私たちと同じ人間の一人となられた。それが、クリスマスの真実なのです。

 キリスト賛歌は、さらに歌います。「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで それも十字架の死に至るまで 従順でした」。キリストは、神の形でありながら、僕の形をとって人間の姿で地上に現れました。そして、人間となられた主イエスは、主人である神に徹底的に従順に仕えて、僕としての歩みを全うされたのです。それが主イエスのご生涯であったと言ってよいと思います。主イエスは、神に従い仕えるべき僕としての人間の本来のあり方を忠実に守って、神に仕える従順な生き方を貫かれました。私たちは、人間としての本来のあり方に背いてしまいました。神に従い仕えるのでなく、自分が主人になって、自分の思いを貫こうとして生きています。それが私たちの罪です。その私たちの罪が、神との関係を引き裂き、隣人との関係も引き裂き、自然との関係も引き裂いてしまいました。それが、罪に捕らわれたたち人間の姿です。
 しかし、神の形である御子イエスが、私たちの同じ人間となって、罪に捕らわれた私たちの間に宿ってくださり、父なる神に従順に生きることによって、神の形に似せて造られた、本来あるべき人間の生き方を示してくださいました。私たちは、人間としてのあるべき姿を、人となってくださった神の御子、イエス・キリストのご生涯において、はっきりと示されることになります。神を愛し、神に仕え、人に仕え、人を愛する生き方を、主イエス・キリストにおいて知るのです。

 キリスト賛歌は、使徒パウロが、初代教会の讃美歌を引用したものだと言いました。ところが、もともとの讃美歌に、パウロが付け加えた言葉があると言われています。「それも十字架の死に至るまで」という言葉です。パウロは、この言葉を加えることによって、主イエスが、父なる神のみ心に従って、十字架にかかって死なれたと証しするのです。それは、私たちの罪を贖うためです。そのために、神の独り子が、私たちと同じ人間の一人として生まれてくださいました。そして、父なる神の御心に従って、十字架にかかり、罪の贖いを成し遂げてくださったのです。父なる神は、独り子イエスの十字架の死によって、すべての人間のための救いの御業を成し遂げるために、御子をこの世にお遣わしになったのです。
 クリスマスから十字架へと貫かれた道は、さらに、天へとつながります。十字架の死に至るまで従順に歩み通された主イエス・キリストを、神は高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは父なる神によって主イエスが死者の中から復活させられ、天に上げられ、今や全能の父なる神の右に座しておられるということです。私たちの救いのために徹底的にへりくだり、御自分を無にして僕となってくださった主イエスを、父なる神は高く挙げ、天における栄光を与えてくださいました。そのことによって、「天上のもの、地上のもの、地下のものすべてが 膝をかがめ すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して 父なる神が崇められるためです」とあります。ここに、クリスマスから始まった救いの御業の結びが描かれているのです。  今から二千年前、この地上に来てくださり、十字架の苦しみを通して罪の贖いを成し遂げ、死んで葬られ、陰府にまでくだられた神の御子は、死人の中からよみがえらされ、高く天に挙げられ、私たちのまことの主となってくださいました。そして、終わりの日には、この地上に完全な平和を実現し、神のご支配を完成するために、再び来てくださるのです。二千年前の最初のクリスマスの出来事を思い描きながら、さらには、終わりの日の壮大な栄光に満ちた礼拝を望み見ながら、私たちのところにまで来てくださった救い主の御前で、私たちの真実な礼拝を献げたいと思います。