2024年12月8日 アドヴェント第二主日礼拝説教「祝福された者の歌」 東野ひかり牧師

ルカによる福音書 第1章39~56節
サムエル上 第2章1~10節

 ルカによる福音書第1章~2章の降誕物語には、歌がちりばめられています。それぞれの歌は、ラテン語の歌い出しの言葉で呼ばれます。今日読みました第1章46節以下にありますのは、主イエスの母とされたマリアが歌った歌です。ラテン語での歌い出しがマグニフィカートという言葉であることから〈マグニフィカート〉と呼ばれて親しまれています。第1章68節以下には、洗礼者ヨハネの父ザカリアの歌があります。〈ベネディクトゥス〉と呼ばれます。そして第2章14節には、救い主がお生まれになった夜、羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天の軍勢が歌う〈グローリア〉があります。礼拝の中で歌う頌栄の原型となった歌です。さらに第2章29節以下には、幼子イエスを腕に抱いた“老人”と言われるシメオンが歌った〈ヌンク・ディミティス〉があります。今年のアドヴェントそしてクリスマスは、これらの歌をたどるように、ルカ福音書からみ言葉を聴いてまいります。
〈歌を歌う心というのは、基本的に楽観的だ〉と言った人があります。悲観的ではないと言うのです。〈悲しみに満ちた人生、悲惨な歴史、明るさが見えない将来、しかしそれを望みをもって展望する心、それが歌う心だ〉と言います。歌う心は明るい、と言うのです。私たちは、悲しみの中で悲しみの歌も歌います。悩みや苦しみの中で嘆きの歌も歌います。けれども、重く暗い心を抱えたまま歌を口ずさんでいるうちに、不思議に力が湧いてきたり、暗い心が明るくされてくるという経験をすることがあるのではないでしょうか。歌は、私たちの心を明るくしてくれます。クリスマスの出来事が「歌」に包まれていること、それはクリスマスが明るい喜びの出来事であることを表わしています。慰めであり希望であることを表わしています。クリスマスは歌を歌うときです。その歌は、私たちの心を明るく照らすのです。

 救い主の母とされたおとめマリアは、まことに力強い歌を、喜びの賛歌を歌いました。神を喜び、神を大きくほめたたえる歌を歌いました。この歌を、マリアはどのような状況の中で歌い出したのでしょうか。
 先週は、マリアが天使ガブリエルから「あなたは聖霊によって男の子を身ごもり、神の御子の母となる」という驚くべきお告げを受けた、いわゆる受胎告知の場面の説き明かしを聞きました。天使はマリアに告げました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(1:35〜37) マリアはこの驚くべき天使の言葉を受け入れ、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(1:38)と、大いなる信仰の決断を言い表したのでした。
 39節以下はその続きになるわけですが、39節は日本語の翻訳でははっきり分かりませんがマリアが「立ち上がった」という言葉から始まっています。元のギリシャ語は「立ち上がった、マリアは、その頃に」という語順になっています。「お言葉どおり、この身になりますように」と言ったマリアは、とてもじっとしてはいられなくなって「立ち上がり」そして急いで出て行った、そういうふうに書かれているのです。立ち上がり、急いで出て行ったマリアが向かったのは、天使が告げた親類のエリサベトの家でした。もう子どもは望めないほどの老年になっていたにもかかわらず、神さまの不思議な力によって男の子を宿しているという、親類のエリサベトが住むユダの山里の町へと急いで向かったのです。

 天使のお告げは、まだいいなずけのヨセフと夫婦の関係を持っていないマリアが、神の聖霊の力によって妊娠するという、マリアにとってはとんでもないお告げでした。しかしその言葉をマリアは受け入れました。普通に、現実的に考えれば、このあとマリアがすぐにしそうなことは、いいなずけのヨセフのところに行って自分の身に起こったこと、そしてこれから自分の身に起こることを話す、そして今後のことについて相談する、ということではないかと思います。けれどマリアは、立ち上がって急いでヨセフのところへ行ったのではなくて、天使が語った親類のエリサベトのところへと急いで出て行ったのです。改めて、マリアは実によく天使の言葉を聞き取っていたのだと思わされます。「お言葉どおり、この身になりますように」とマリアは天使に答えましたが、まさに「お言葉どおり」にマリアは動いたのです。もしマリアが自分の考えや思い、あるいはこれから自分はどうなってしまうのだろうかというような、当然沸き起こるであろう心配や不安に従って動いたのなら、きっといいなずけのヨセフのところにまっ先に向かったと思います。けれどマリアはそうはしなかったのです。ヨセフの考えや知恵に頼ろうとは思わなかった。マリアは、天使が告げた神の言葉を実によく聞き取り、それに従って動きました。「主の仕え女」・主の僕として、神さまの言葉だけを頼りとし、神の言葉に従ったのです。その結果マリアは、いいなずけのヨセフのところへではなく、天使が告げた親類のエリサベトのところへと急いで出て行きました。

 エリサベトと夫の祭司ザカリアが住むユダの町が何という名であったのか、聖書には記されていません。けれどその町は、エルサレムから数キロ離れたところにあるエイン・カレム(エン・カレム)という町だとされています。エイン・カレム(エン・カレム)は、「ぶどう園の泉」という意味です。緑豊かな山里の美しい町だそうです。現在は、その町にマリアがエリサベトを訪問したことを記念した「マリアの訪問教会」が建てられています。(ちなみに、銀座の教文館の4階にあるショップの名前がその町と同じエイン・カレムです。)
 エイン・カレムは美しい山里の町ですが、ガリラヤのナザレからその町までは、110キロ以上の道のりがあります。しかもその道のりは、ごつごつとした岩肌の山々を越えて行かねばならない険しく危険な道のりだったといいます。わずか13歳か14歳のマリアの足では、おそらく1週間以上かかっただろうと言う人もあります。しかしマリアはたった一人で、その険しい道のりを急ぎました。天使が告げたエリサベトに、どうしても早く会いたかったからです。自分と同じように神さまの不思議な力によって男の子を身ごもっているエリサベトに早く会いたかったからです。神の言葉がその通りになることを、既にその体に体験している親類のエリサベトに会いたい。マリアは、エリサベトに会って「神にできないことは何一つない」ということを、互いのお腹をさすり合うようにして確かめ合い、一緒に喜び合いたいと願ったのではないでしょうか。dエリサベトと一緒に、「ほんとうに、神さまの言葉は、神さまのみ旨のとおりに、そのとおりになるのね。」「ほんとうにそうね。そのとおりね」と、エリサベトと共に「神にできないことは何一つない」ことを喜び合いたかったのではないかと思うのです。

 マリアはザカリアの家に着き、そして家に入ってエリサベトに挨拶をしました。マリアの挨拶を聞いたエリサベト、そしてエリサベトのお腹の赤ちゃんも、マリアの訪問に大喜びします。エリサベトのお腹の中にいた後の洗礼者ヨハネは、マリアの声を聴いて躍り上がったと記されます。エリサベトは「聖霊に満たされて、声高らかに」マリアを祝福します。エリサベトは、マリアとマリアのお腹に宿った救い主を喜ぶ、喜びの叫びをあげました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び躍りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
 ある人が、ここでおもしろいことを言いました。〈このエリサベトの言葉には妬みの思いが全くない〉と言うのです。エリサベトはここでまったくマリアを羨んだり妬んだりしていないと言うのです。ルカによる福音書は、後に主イエスを取り囲む群衆の中の一人の女性の言葉を書き記しています。その女性は、主イエスに向かってこう叫びました。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」(11:27)この言葉には、主イエスの母とされた人に対する、ある羨ましさが込められていると思います。しかし主イエスはこの女性に対してこう言われました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(11:28)エリサベトは、ここでマリアに、主イエスと同じことを言うのです。マリアが実に幸いな、祝福された人であるのは、主イエスの母として特別に選ばれ、主の母である特権を与えられたからではありません。そうではなくて、マリアは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」、そのことのゆえに、マリアは実に幸いな人・「祝福された方」なのです。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる信仰のゆえに、「私の主のお母様」とされたお方が私のところに来てくださったと、エリサベトはマリアの訪問を心から喜びました。

 実は、この45節は、別の訳し方も可能です。こう訳すこともできるのです。「なんと幸いでしょう、信じたお方は。なぜなら、主がおっしゃったことは必ず実現するのですから。」英語の欽定訳聖書や日本語の文語訳などがこのような訳になっています。この訳では、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じたのは、マリアではなくエリサベト、ということになります。ここは、二通りの訳が可能だということに意味があるのではないかと思います。つまりここには、マリアもエリサベトも、二人とも「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じた、ということが示されているのです。
 古くから、このマリアとエリサベトの姿は、受胎告知の場面と同じように絵画や彫刻に表されてきました。インターネットで、「マリアとエリサベト」と検索しますと、この二人が手を取り合っている絵や、頬を寄せ合って抱き合っているような絵などを見ることができます。そしてそのように二人が出会っている姿は、信仰者と信仰者が共に手を取り合って喜び合っている姿として、教会の原型とも言われるのです。
 私たちは日曜日ごとに、それぞれの家からこの教会へと、ある意味では色んな険しい山を越えて集まって来ます。マリアが険しい山道を急いで歩いてエリサベトのところに向かったように、私たちはそれぞれの険しい山道を歩いてこの丘の上の教会までやって来ると思います。ここで信仰の友に会って、同じ信仰に生きる仲間と共に、「ほんとうに、神さまがおっしゃったことはその通りに実現する」、私の思いではなくて、神さまの御心が実現する、そのことを信じることができる幸いを、そのことを信じることができる平安を、共に喜び合うためにここに急いでやって来る。そう言えるのではないでしょうか。そしてここで、この教会で、一緒に歌うのです。喜びの歌を歌う。信じる者たち、幸いな者たちの歌を歌う。祝福された者たちの歌を歌うのです。

 エリサベトは、喜びがほとばしり出るようにマリアを祝福しました。「あなたはなんと幸いなお方でしょう!」私たちが教会で互いに告げ合うのも、この祝福、この喜びではないでしょうか。「あなたはなんと幸いなお方でしょう。信じたお方は。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたお方は。神にできないことは何一つないと信じたお方は。神の御心が成ると信じたお方は。神が共にいますと信じたお方は。なんと幸いなことでしょう。」私たちは教会でこの祝福を互いに告げ合い、聞くのではないでしょうか。「私たちの思いでも、私たちの言葉でもなくて、神の言葉が実現します、主がおっしゃったことは必ず実現します。何一つできないことはない主が、私たちと共にいてくださいます。」この信仰に生きる幸いを語り合う、祝福を告げあう、それが、教会の交わりでしょう。
 そこに、歌が生まれるのです。神をほめたたえる歌です。「神をほめたたえる」と訳される言葉は、「神を祝福する」とも訳せます。「祝福する」とは、〈良いことを言う、良い言葉を語る〉という意味の言葉です。神に向かって良いことを言う、良い言葉を語る、すなわち「神を祝福する」ということは、「神をほめたたえる」ということになるわけです。人に向かって〈良いことを言う、良い言葉を語る〉とき、それは人を祝福する、ということになります。マリアは、エリサベトから最大級の良い言葉を受けました。喜びの言葉を受けました。祝福を受けました。それに対して、もちろんマリアもエリサベトを祝福したでしょう。互いを喜び合い、祝福を告げあったでしょう。けれども興味深いことに、ルカ福音書は、この時マリアもエリサベトに祝福の言葉を返した、とは記さず、エリサベトの祝福を受けたマリアは、神に向かって良い言葉を、喜びの言葉を語り始めた、神を祝福し始めた、神をほめたたえ賛美し始めた、と記すのです。エリサベトのマリアへの祝福、喜びが、マリアの神への祝福、神への賛美、神を喜ぶ歌となっていくのです。私たちが互いに告げ合い、互いを喜び合う祝福は、神への祝福・賛美となっていくのです。

 このようにして、マリアはマグニフィカートを歌い始めました。エリサベトの祝福と喜びを受けて、喜びに包まれて、マリアは神を喜ぶ歌を歌い始めたのです。ここにも、教会の姿が見えていると言えます。教会は、神を信じる者たちが互いに祝福の言葉を交わし合い、互いを喜び合い、そしてその喜びに包まれて神を仰ぎ、神をほめたたえる歌を歌うのです。
 私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神を喜びたたえます。」「あがめる」と訳された言葉のもとの言葉は、「大きくする」という意味の言葉です。私の魂は主を大きくする、マリアはそう歌い始めます。神を賛美する、ほめたたえるということは、まず神を大きくすることなのです。自分を大きくするのではない、誰かほかの人何か他のものを大きくするのではない、神を大きくする。それが神をほめたたえる、神に向かう良い言葉、喜びの言葉です。マリアは、ただ「私は主をあがめ、主を喜ぶ」と歌ったのではなくて、「私の魂は」「私の霊は」と歌いました。それは、私の魂、私の霊、すなわち私の心の最も深いところ、私の存在の最も深いところから、主を大きくすると歌ったのです。心の底から、私の全身全霊で、神さま、私はあなたを大きくします。あなたを全身全霊で、心の底から喜びます、そう神さまを賛美し始めるのです。
 「喜びたたえる」と訳された言葉は、44節でエリサベトのお腹の赤ちゃんが「喜び躍りました」と言われていたのと同じ言葉の動詞です。先月の120周年記念礼拝で、近藤勝彦先生が説教の中でおっしゃっていたⅠペトロ第1章6節に語られている「大きな喜び」「跳び上がるような喜び」を表わす言葉です。お腹の子どもが喜びのあまり飛び跳ねるように動いた、その胎動を感じながらエリサベトは喜びに満ちてマリアとそのお腹の救い主を喜び祝福しました。マリアは、その跳び上がるような喜びをもって、「私は全身全霊で救い主なる神を喜ぶ」と歌ったのです。
 なぜそれほどに神を喜び、神を大きくするのか。神がその「慈しみを忘れず」(54節)、エリサベトを通し、マリアを通し、その民を顧みたもうたからです。50節と54節に「慈しみ」という言葉があります。旧約聖書を学んでいますと繰り返し聞く、ヘセドというヘブライ語が、この言葉の元にあります。先日も祈祷会でこの「慈しみ・ヘセド」について学びました。平日聖研の詩編の学びでは繰り返しこの「慈しみ・ヘセド」という言葉を聞きます。ヘセドは、契約に基づく変わることのない真実の愛を表わす言葉です。神の真実に基づく愛です。神はその真実に基づく変わることのない愛を決してお忘れにならない、その愛を貫き実現される。マリアはそのことを歌います。神の「慈しみ・ヘセド」の真実の愛が、「私たちの先祖に語られたとおり」(55節)、その約束・契約をたがえることなく実現されている。マリアはそのことを自らの体において、またエリサベトの体において、はっきり知らされ、心の底から神をほめたたえ、神を喜ぶ、と歌っているのです。

 51~54節には、神がそのヘセドの愛をもって、神の正しさ・神の義を貫かれるということが歌われています。「主は御腕をもって力を振るい/思い上がる者を追い散らし/権力ある者をその座から引き降ろし/低い者を高く上げ/飢えた者を良い物で満たし/富める者を何も持たせずに追い払い/慈しみを忘れず/その僕イスラエルを助けてくださいました。」ここに歌われているのは、威張っている人やおごり高ぶっている人は、神さまの懲らしめを受けてぎゃふんと言わされることになる、というようなことではありません。ここには、高い者は低くされ、低い者は高くされる、という逆転がうたわれています。それゆえに、この歌は革命的な歌だとも言われます。このマリアの歌は、優しい母マリアの歌というのではなく、大変勇ましく大胆な〈革命の歌〉とも呼ばれるような歌です。このような逆転の思想は、旧約聖書から新約聖書まで、聖書全体を貫いています。マリアの歌は、そのすべての言葉に旧約聖書の背景があると指摘することができるほどの、旧約の背景を持つ言葉で歌われています。
 今日の旧約聖書、サムエル記上第2章1~10節は、祭司サムエルの母となったハンナの祈りでしたが、このハンナの祈り・ハンナの歌とマリアの歌はとてもよく似ています。マリアはこのハンナの歌を元にこの歌を歌ったとさえ言われるほどです。しかし、このハンナの歌だけではないのです。このマリアの歌の言葉一つひとつに、旧約聖書の背景があるのです。マリアの歌はその全体を通して、「(主が)私たちの先祖に語られたとおりに」慈しみを忘れずその民を顧み助けてくださった、その慈しみの約束を実現されたということを歌い、それはすなわち主の正義、神の義が貫かれるということだと歌っているのです。主がそのみ腕をもって力を振るうとき、主の愛・慈しみと主の正義・主の義が貫かれる、そのお言葉の通りに、高ぶる者は低くされ、低い者は高くされる。マリアの歌は、まことに神の救いのみ業を大きくほめたたえ、神を喜ぶ賛美の歌です。

 マリアは、すべての信仰者に先立ち、私たちに先立って、この歌を歌ってくれました。私たちは、マリアに続いてこの歌を私たちの歌として歌うことができる者たちです。互いに祝福を告げ合い、互いに喜び合う者たちとして、神をあがめ、神を大きくし、神を喜び、神をほめたたえる歌を歌うのです。
 私たちを取り巻く現実は戦争が止まず、傲り高ぶる者が権力を振るい、思うがままに振る舞っている、そのような現実です。私たち自身の中にあるのも自分ばかりを大きくしようとする高慢な心だと言わねばならないかもしれません。しかし神は、マリアの肉体を用いてその独り子を私たちのために与えてくださいました。「お言葉どおりに」その慈しみをお忘れにならず、真実の愛と義を貫いてくださいました。まことに神の約束・契約の言葉は、クリスマスにおいてその通りに実現したのです。高ぶる者は低くされ、低い者は高くされます。神はその真実な愛とその正しさ・義を、この世においても、また私たち一人ひとりにおいても、貫いてくださいます。そこに私たちの喜びがあり、私たちの平安と慰めがあり、私たちの希望があります。マリアと共に歌いましょう。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神を喜びたたえます。