2024年12月15日 アドヴェント第三主日礼拝説教「曙の光が我らを訪れ」 東野尚志牧師
イザヤ書 第40章3~5節
ルカによる福音書 第1章57~80節
アドヴェント第三の主日を迎えました。いよいよ、来週の日曜日は、クリスマスの礼拝となります。今年は、12月に入りましてから、ルカによる福音書のクリスマスの物語を読み続けて参りました。来週は、その第2章の前半部分、主イエスがベツレヘムの家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かされるところを読みます。救い主がお生まれになった。その喜ばしい知らせは、主の天使によって、野原で夜通し羊の群れの番をしている羊飼いたちに告げられます。すると、夜空に天の大軍が現れ、天使と一緒になって神への賛美を歌います。羊飼いたちは、この賛美の歌に励まされるようにして、ベツレヘムへと出かけて行くのです。そして、天使が告げたとおり、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当てます。すべては、天使が告げたとおりでした。それで、羊飼いたちは、神を崇め、賛美しながら、自分たちの仕事場へと帰って行くのです。
言うまでもなく、クリスマスの物語の中心にあるのは、神の独り子である救い主の誕生という出来事です。神の独り子であるお方が、私たちと同じ人間の一人として、この地上にお生まれくださいました。私たちを、罪の支配から贖い出す救い主として来てくださいました。御子である神が、天において、父なる神のもとでまとっておられた神の独り子としての栄光をかなぐり捨てるようにして、貧しく無力な乳飲み子の姿で、この世に来られたのです。ルカによる福音書は、この神の御子の誕生という出来事を中心に据えながら、それに先立つ、もうひとつの誕生の物語を描いています。主イエスの母となったマリアとは親類であったエリサベトが、男の子を産むのです。
マリアは、十代の前半、ヨセフと婚約はしていましたけれども、まだ男性との関係をもったことがないのに、聖霊の力によって子どもを宿すことになりました。一方のエリサベトは、夫であるザカリアともども、すでに高齢になっており、子どもを宿すことのできない体でありながら、聖霊の働きによって男の子を産むのです。母親同士、ずいぶん年は離れていても親類でしたから、生まれる子どもたち同士も親戚ということになります。そして、ただ親戚であるというだけでなく、この二人の男の子は、深い絆で結ばれながら成長していくことになります。エリサベトが産んだ子は、救い主に先立って現れ、その道を備える者としての働きを担うことになるのです。先ほど朗読した福音書の物語には、救い主の先駆けとなるべき男の子の誕生と、その父ザカリアが歌った賛美の歌が記されています。
ザカリアは、ユダヤの国の祭司の家系に属する人でした。その妻のエリサベトもアロン家の娘の一人として紹介されておりましたから、夫婦揃って、モーセの兄であった祭司アロンの血を引く由緒正しい祭司の家系に属していたことになります。しかも、夫婦二人共に、神さまの御前に正しい人であって、主の戒めと定めとをすべて落ち度なく守って生活をしていたというのです。ところが、このザカリアとエリサベトの夫婦は、子どもが与えられないままに、二人ともすでに年老いていました。当時、子を授かることは、神さまの祝福の目に見える確かなしるしと考えられていました。それだけに、本人たちはもちろん、周りの者たちも、この夫婦に子どもを授かることを願い求めながら、しかし、もはや年齢的には無理だという、諦めに似た思いを抱くようになっていたのです。
ところがある日、ザカリアが神殿で祭司の務めを担っていたとき、天使が現れて、妻エリサベトが身ごもって男の子を産むと告げました。しかも、それだけではありません。その子は、母親の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、神さまの御心によって大切な務めを担うようになる、と告げました。本来ならば、それは、ザカリアとエリサベトが心から願っていたことの実現であるはずです。大いに喜ぶべき知らせであったはずです。けれども、天使のお告げを受けたザカリアは、その言葉を素直に信じ、受けいれることができませんでした。ザカリアは天使に答えて言いました。「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」(1章18節)。自分たちの年齢に関わる常識的で現実的な判断が、天使の告げる神の言葉をはじき返してしまったのです。
それは、同じく天使のお告げを受けたマリアとは対照的な応答であったと言ってよいと思います。マリアはザカリアやエリサベトとは逆に、まだ若すぎる少女の面影を残す年齢でした。しかし、聖霊によって身ごもるというお告げを受けたマリアは、確かにとまどいを覚えながらも、主なる神のご計画を受けいれて応えました。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」(1章38節)。それは、確かに、無謀で受け入れがたい言葉でした。婚約をしただけで結婚していない娘が、婚約者との間にではなく子を宿すということが、周りの人たちにどのように受け止められるか、考えただけでたじろいでしまいます。しかしマリアは、天使が告げた神の言葉を、まさに神の言葉として受けいれたのです。一方の分別を弁えた老齢のザカリアは、マリアのようには、神の言葉を受け入れることができませんでした。そして、そのためにザカリアは口を利くことができなくなったのです。
天使はザカリアに告げました。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに語りかけ、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」(1章19~20節)。口が利けなくなる。ものが言えなくなる。それは、決して、ザカリアの不信仰に対する懲らしめとして、罰として与えられたのではありません。やがて時が来て、天使のお告げの通りに子が生まれ、幼子に名をつけるとき、近所の人たちや親類がどんな名にしたいかを父親であるザカリアに確かめるのに、手振りで尋ねたとありましたから、ただ口が利けなくなっていただけではなくて、耳も聞こえなくなっていたと考えられます。つまり、ザカリアは、エリサベトが身ごもって出産に備えていく間、神の御業がまさにエリサベトの上に現されていく様子を、耳も聞こえず、口も利けない状態で、見つめていくことになったのです。
ザカリアはおよそ10ヶ月の間、音のない世界に身を置くことになりました。人々の言葉、自分自身の言葉からも自由になって、沈黙のうちに、ただ神の御言葉を聞き、神に祈る時が与えられた、と言ってよいのだと思います。神の言葉を受け入れ、自分自身を神の言葉に委ねるために、沈黙の時、祈りの時が必要であったのだと思います。マリアはまだ人生経験の浅い少女でした。自分の無力さを知っていました。神に頼るほかないということを知っていました。けれども、私たちは、人生の経験を重ね、さまざまな知恵を身につけて、できることとできないこととを判断するようになると、信じることよりも理解することを優先してしまうのではないでしょうか。経験を通して学んだ常識や知識から、あり得ないと判断したことは、たとえ天使の言葉であっても受け入れようとしない。そういう頑なな心で、自分の安全を守ろうとするのです。うっかり信じて馬鹿を見た。そんな経験が、ますます私たちを疑り深く頑なにします。神の言葉や神の御業をもはじき返してしまうほどに、硬い殻で覆われたようになって、自分自身の思いに凝り固まってしまうのです。私たちも、沈黙の時を必要としているのでないでしょうか。神の言葉を聴くために、神の言葉を信じるために、人間の言葉を沈黙させる時が必要なのではないかと思います。
最近、電車やバスに乗ると、ほとんどの人が、スマホの画面を覗き込んでいます。以前は、勤め人とおぼしき人たちが、新聞を縦折りにして、電車に揺られながら読んでいたり、肩をすぼめて本を読んでいる人もいたりしましたが、今はそれも、すべてスマホひとつでできるようになりました。確かに、スマホは調べ物をしたりするのにとても便利です。テレビのニュースなどで、分からない言葉や気になる人の名前が出てくると、スマホで検索して、すぐに情報を得られます。しかしまた、SNSが流行り、誰でも簡単に情報発信ができるようになったために、スマホを通して手に入る情報は、玉石混淆です。頼りになる確かなニュースもあれば、事実に基づかない作り話やフェイクニュースも溢れています。スマホの情報ばかりに頼っていると、いつか足をすくわれることになりそうです。しかも、スマホは私たちがどんなページを好んで見ているかを学習して、それに関わる情報がどんどん優先的に表示されるようになります。いつの間にか、非常に偏った情報に囲まれながら、それを真実だと思い込まされてしまうのです。
最近は、「デジタル・デトックス」という言葉も目にするようになりました。デトックスというのは、体内の有害物質を外に出すことを意味します。「デジタル・デトックス」というのは、スマートフォンやパソコンなど、いわゆるデジタル機器から一定期間距離を置くことで、心身の疲れやストレスを軽減しようとするのです。「ネット断ち」などと呼ばれることもあります。気楽にネットに接していることで、知らない間に、自分自身の中に、いろんな毒が溜まっていきます。そして、気づかずに、自分でも毒を吐くようになってしまう。いつの間にか、グループチャットをするように、人の噂話や、人を批判する言葉、人を傷つける言葉にどっぷりと浸かってしまうのです。デトックスのためには、一度、断ち切ることが必要です。人間の言葉、人間の常識や、人の噂、批判の言葉を断ち切って、沈黙する。人間の言葉を断ち切って、神の言葉に耳を傾ける。情報が溢れている社会の中で、真実に神の言葉を聴くためには、人間の言葉は沈黙させる必要があるのです。
ほぼ10ヶ月の間、ザカリアの口と耳は閉ざされていました。月が満ちて、天使の言葉どおり、高齢のエリサベトが男の子を産んだときも、ザカリアは口を利くことはできませんでした。幼子が生まれてから八日目、掟に従って、幼子が神の民に加えられる契約のしるしとして割礼を施すために、人々が集まって来ました。割礼に合わせて名前をつけることになっていました。親戚の者たちは、父親の名前にちなんで、ザカリアという名にしようとしました。ザカリア・ジュニア、ということでしょう。ところが、幼子の母であるエリサベトは、それを拒んで言いました。「いいえ、ヨハネとしなければなりません」(60節)。ヨハネ、それは、天使ガブリエルがザカリアに現れたとき、生まれる子につけるようにと命じた名前でした。神の言葉を受けいれなかったザカリアは、その時から口が利けなくなっていたわけですけれども、恐らく、与えられた沈黙の期間のうちに、身振り手振りか、あるいは、この後に出てくる書き板のようなものを用いて、いわゆる筆談で、事のいきさつを妻エリサベトにも伝えていたのだと思います。そして、二人で祈りの心を合わせながら、天使が命じたとおり、幼子にはヨハネと名づけることを申し合わせていたのではないでしょうか。
けれども、集まった人たちは、親族の中にそういう名の人はいないからと言って納得しませんでした。そして、父であるザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねたのです。福音書記者ルカは、こんなふうに記しています。「父親は書き板を持って来させて、『その名はヨハネ』と書いたので、人々は皆不思議に思った」(63節)。「その名はヨハネ」。エリサベトに続けて、ザカリアもまたその名を示したそのとき、ザカリアは口を開き、舌がほどけて、ものが言えるようになった、といいます。天使ガブリエルは、「このことの起こる日まで話すことができなくなる」と告げました。つまり、天使の告げた神の言葉が実現した日というのは、超高齢出産であったにもかかわらず、無事に子どもが生まれたその日ではなかったのです。それから八日を経て、幼子に「ヨハネ」という名がつけられたときです。ザカリアは、天使に命じられたとおり、生まれた子に「ヨハネ」と名をつけました。それは、ただ天使に言われたとおりにした、というだけではありません。天使が告げた約束のすべてを信じて受けいれた、ということを表す、ザカリアの信仰告白であったと言ってよいのです。
神の時が満たされ、ザカリアが再び口を利けるようになったとき、その口は神への賛美を歌いました。そのとき、ザカリアの歌った歌が、第1章の68節から79節まで、カギ括弧でくくられたところになります。全体で12の節からなる短い歌ですけれども、内容的には大きく二つの部分に分かれます。まず前半では、「イスラエルの神である主は ほめたたえられますように」と歌い始めました。そして、神をほめたたえる理由として、主がご自分の民を訪れてくださり、これを贖ってくださったからだと歌います。その神の訪れと贖いは、具体的にどこで起こったかと言えば、「我らのために救いの角を 僕ダビデの家に起こされた」と言うのです(69節)。ダビデの子孫としてお生まれくださる主イエス・キリストにおいて、神がやって来られ、罪の贖いを成し遂げてくださったと歌うのです。ザカリアが歌うわけですから、神さまが我が子としてヨハネを与えてくださったことを感謝するのかと思えば、そうではありません。むしろ、神さまの壮大な救いのご計画とその実現としての御子イエス・キリストの来臨を仰ぎ望みながら、救いの神をたたえるのです。しかもそれは、いにしえの時代から預言者たちによって告げられた預言の成就であり、神がアブラハムを選んで、アブラハムと契約を結び、ご自分の民を選び出し、救い出された出来事から始まっていることを示します。つまり、この歌の前半では、神の民の過去を遡るようにして、イスラエルの歴史をたどりながら、その背後に、今や救い主の到来においてクライマックスを迎えようとする神の救いの計画が貫かれていることを明らかにするのです。
歌の後半に入ると、そこで初めて、具体的に、与えられた幼子のことに触れられます。「幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を備え 主の民に罪の赦しによる救いを 知らせるからである」(76節)。幼子と呼ばれるヨハネについて、救い主である主、ヨハネの後からお生まれになる主イエスとの関わりの中で、そのなすべき務めが、はっきりと告げられています。あくまでも、救いの御業の中心は御子イエスにあるのであって、ヨハネは「主に先立って行き、その道を備え」ていくのです。もちろん、それはこの時点では未来に属する事柄であって、ザカリアが聖霊を受けて預言した言葉ということになります。そして、賛歌と預言は、クライマックスとしての主イエスの来臨を歌う言葉をもって結ばれます。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって 高い所から曙の光が我らを訪れ 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし 我らの足を平和の道に導く」(78~79節)。
救い主として来られた主イエス・キリストとの関わりの中で、ヨハネのなすべき業がはっきりと示されました。幼子がヨハネと名付けられたとき、人々は言いました。「この子は一体、どんな人になるのだろうか」(66節)。恐らくこれは、噂を聞いたその地方の人たちだけではなくて、誰よりもまず、ザカリアとエリサベトの思いであったのではないでしょうか。神さまのご計画の中で命を与えられ、生まれながらに神さまの御業のために献げられたこの子は、一体、どんな人になるのだろうか。間違えてはなりません。「この子を、どんな人にしようか」「どんな人に育てようか」ということではないのです。親の思い通りに育てて、後を継がせようということではない。神が与えてくださった。神がお用いになる。神が、そのご計画の中で、どんな人にしてくださるだろうか。信仰をもって神に委ねられた者に、神の祝福が約束されています。ルカはそこに書き記しました。「主の御手がこの子と共にあった」(66節)。
それは、ヨハネだけの話ではありません。またザカリアとエリサベトだけの話ではありません。神さまは、私たち一人ひとりのためにも、ご計画をもって道を備えておられます。神さまの壮大な救いの物語、救いの歴史の中で、私たちを用いようとしていてくださいます。「この子は一体、どんな人になるのだろうか」。神さまのご計画に対する畏れをいだきながら、私たちも自分自身について問うのです。神がどのように私を用いてくださるのだろうか、私になすべく与えられた務めは何だろうか、そのように問うていく信仰が求められているのです。主の御手が私たちと共にあり、主が私たちと共にいてくださいます。私たちもまた、主の召しを受けて、主と一つに結ばれる洗礼を受けて、神の民の歴史を造り上げて行くたくさんのピースの一つのように、私たちのなすべき務めが備えられています。どのピースが一つ欠けても、神の救いの物語は完成しないのです。
私たちが、高い所からの曙の光、救いの光に照らされて、それぞれになすべきこと、生きる道を見いだしていくとき、そこに、まことの平和の道が拓かれます。ザカリアは、「こうして我らは 敵の手から救われ 恐れなく主に仕える」と歌いました。しかし、最大の敵は、外にいるのではなくて、私たちの内に忍び込んで、私たちを惑わし、お互いが敵対するように仕向けようとします。人と自分とを比べて競い合い、少しでも人よりも上に行くことを求めるようにそそのかしたり、外に敵を作ることで、自分たちの結束を強めようとさせたり、私たちの間に、争いと対立を生み出そうと図るのです。神の言葉を聞こえないようにして、私たちの間を引き裂こうとする悪魔の手から救い出すために、神の独り子が来てくださいました。神に逆らう罪の言葉を沈黙させて、主の言葉に耳を傾け、主の愛に包まれ、主の救いにあずかるとき、私たちも、平和の道に導かれます。お互いが、主に愛されている者として、この地上に、主にある和解と平和を実現して行く。主にある交わりを喜び楽しむ。上からの曙の光に照らされて、そのような神の子たちの歩みが始まるのです。