2024年9月1日 主日礼拝説教「しかし、勇気を出しなさい」 東野尚志牧師

イザヤ書 第26章12~13節
ヨハネによる福音書 第16章25~33節

 新しい月、9月を迎えました。昨日まで8月だったわけですけれども、8月最後の一週間は、何とも重苦しい日々を過ごすことになりました。それまでは、災害級の猛暑に悩まされました。生存を脅かされるような酷暑のもと、不要不急の外出を避けるようにと、コロナ禍の日々を思い起こさせる言葉を耳にしました。先週の日曜日、軽井沢での夏期修養会を終えて都内に戻って来た時も、駒込の駅から外に出たとたん、体にへばりつくような熱気で厳しい現実に引き戻されました。ところが、その後は、台風10号の影響に翻弄されるようにして、この一週間を過ごして来たのです。パリでのパラリンピックの報道が始まっても、台風のニュースの方が気になりました。ずいぶんと動きの遅い台風で、各地に記録的な大雨をもたらし、多くの被害が出ています。まだその影響が続いている中で、新しい月を迎えることになりました。
 9月の第一主日を、日本の教会では「振起日」と呼んできました。「振るい起こす日」と書いて、「振起日」と読みます。学校関係では、夏休みが終わって、新学期の生活が始まる季節でもあります。使う漢字は違いますけれども、心機一転、気持ちを切り替えて、新しい季節に備える区切りの日、そんな意味合いも感じます。9月中はまだまだ暑さが収まりそうにありませんけれども、やがては季節の移り変わりを肌で感じていくことになります。新しい季節を迎え、新しい志をもって礼拝に集い、新しい決意をもって、教会の生活を新たに始めたいと願います。これから秋の諸行事を経て、11月には教会創立120周年記念礼拝、その先のクリスマスを目指していくことになります。志新たに、歩みを進めて行きたいと思います。今日、こうして、さまざまな困難を乗り越えて、新たな始まりを刻む振起日の礼拝を共にすることのできた皆さまお一人びとりの上に、主なる神の祝福とお導きをお祈りします。

 今日は、振起日の礼拝にふさわしい御言葉が与えられたと言ってよいと思います。主イエスは言われます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(16章33節)。主イエスは、私たちが直面する苦難、さまざまな重荷や圧迫、悩みを知っていてくださいます。だから、私たちに同情して、もうそのままで良い、無理をするな、と言われるのではありません。勇気を出しなさい、と言われます。私はすでに世に勝っている、と言われます。主イエスが、すでに世に勝っておられるから、私たちはどのような厳しい現実の中にあっても、望みを失わず、勇気を出すことができるのです。これは、つらい日々に耐えている者に対して、無責任に「頑張れ」と声をかけるのとは違います。特に、心理的にダメージを受けている人に対して、「頑張れ」という言葉は禁句だと言われます。もう頑張れない。これ以上、何を頑張れというのか、そんなふうにかえって傷つけてしまうことにもなります。けれども、主は、ご自分の十字架と復活を通して、世に勝利された方として、この世で苦しむ私たちに、勇気を与えてくださるのです。
 恐らく、皆さまの中にも、この主イエスの言葉を、ご自分の愛唱聖句として覚えておられる方があるのではないかと思います。私は、120周年記念の証し集の中身を全部見てはおりませんけれども、ご自身の愛唱聖句として挙げておられる方があるに違いないと思います。先日、軽井沢で行われた夏期修養会の二日目の朝、早天礼拝の奨励を担当された佐藤正幸神学生が、この主イエスの言葉をご自身の愛唱聖句として読まれました。これで、一人は確実です。恐らく、一人ではないでしょう。私自身も、証し集の愛唱聖句にはあげませんでしたけれども、この主イエスの言葉にたびたび力づけられ、励まされてきました。困難や悩み、苦しみの中にあるとき、一番辛いのは出口が見えないことです。しかし、その深い悩みの淵の底に、ひと筋の光が差し込んできます。いや、上から光が差し込んできたというよりは、暗闇の中にたたずんでいた私のところに、主イエスが共にいてくださったのです。そして、十字架の傷を刻んだその御手を差し出して、助け起こしてくださった。そういう主イエスご自身との出会いの経験によるのです。そのような御言葉を、この振起日の朝、改めて、共に聞くことができて、まことにさいわいであると思います。

 ところで、主イエスがこの言葉を語ってくださったのは、ヨハネによる福音書の第16章の結びの箇所であります。第13章の途中から始まった最後の晩餐の記事の中で、続く14章、15章、16章と3つの章にわたって、主イエスの別れの説教が綴られてきました。主イエスが、弟子たちとの別れを前にして、改めて、弟子たちに教えられた言葉です。主イエスの遺言と呼んでも良い、実に重みのある言葉が語られてきたのです。その中で、主イエスははっきりと、ご自分が去って行かれることを告げておられます。父なる神から遣わされて、この地上に降って来られた主イエスは、私たちと同じ人間の一人としてお生まれになり、その肉体をもって十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目に復活されました。その十字架と復活において、私たちのための救いの御業を成し遂げられた主は、父なる神のもとへと帰って行かれるのです。その十字架を前にして、弟子たちとの別れを前にして、主イエスは弟子たちに、語って来られました。ご自分が、父なる神のもとに帰ることによって、もう一人の弁護者として、真理の霊である聖霊が送られると約束されました。弟子たち、また後の教会が経験することになる厳しい世の迫害について予告しながら、聖霊において、主ご自身が現臨されることを告げてくださいました。そして、それまで語ってこられたすべての言葉を締め括るようにして、あの力強い励ましと勝利の宣言を語られたのです。
 この後の第17章にも、主イエスの言葉が続いています。けれども、それは、主イエスの教えというよりは祈りです。主イエスは、後に残していく弟子たちのために、そして弟子たちの証しを聞いて主イエスを信じるようになる後の信仰者たち、つまり私たち教会のために祈ってくださいました。大祭司の祈りとも呼ばれます。執り成しの祈りです。その祈りが17章全体に綴られています。こうして14章から16章まで続いた長い教えと、17章の祈りを経て、18章以下には、主イエスの逮捕、裁判、そして十字架の死の場面が描かれていくことになります。主イエスが予め告げておられたことが、現実になっていくのです。その意味では、あの勝利の宣言で終わる16章の最後の段落は、主イエスがそれまで語って来られた別れの言葉、主イエスの遺言のまとめにあたると言っても良いと思います。主イエスの遺言は、力強い勝利の宣言で結ばれました。なおも、この世にあって、神に背を向けた世から厳しい迫害を受けることになる弟子たちに、予め勝利の宣言をなさったのです。

 さて、主イエスは長い別れの説教のまとめとして、勝利の宣言で結ばれる最後の段落で、弟子たちに何を語られたのでしょうか。最後の段落は、次のような主の言葉で始まりました。「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」。16章25節の言葉です。この言葉を受けて、さらに言われます。「その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる」。つまり、父なる神と私たちの関係が、決定的に変わる日が来るというのです。これまでは、私たちが、父なる神のことを理解することができるように、主イエスはさまざまなたとえを用いながら語って来られたといいます。けれども、その日が来れば、たとえなどというつなぎがなくても、私たちが、直接、父なる神のことを知るようになると言われます。だから、その日が来れば、私たちは、主イエスの名によって、父なる神に、直接、祈れるようになるというのです。
 私たちは、今すでに、主イエスの名によって祈ることを教えられています。教会学校の子どもたちも、しばらく教会に来ていれば、お祈りの最後に「イエスさまのお名前によって、お祈りします」、「イエスさまのお名前によってお献げします」と言うのだと学びます。確かに、私たちは今すでに、主イエスの名によって祈ることを学んでおり、実際、そのように祈っているのです。しかし、もしかすると少し誤解をしているのかもしれません。たとえば、古い時代に、高貴な方と直接言葉を交わすことがはばかられて、間で言葉を取り次ぐ人がいたということを、ご存じの方も多いと思います。数段高いところで、高貴な方が席に着いておられる。その方に直接話しかけるのではなくて、脇に控えている人に向かって、自分の願いを申し上げる。すると、その人が語られた内容を高貴な方に取り次いでくれる。あたかもそれと同じように、イエスさまのお名前によって祈るのは、私たちの願いや祈りをイエスさまに取り次いでいただくのだと教えられる。確かに、そういう面がないわけではありません。けれども、祈りの結びで「主イエスの名によって」と述べるとしても、その祈り自体は、直接、父なる神さまに呼びかけて祈っているのではないでしょうか。直接言葉を交わす道が閉ざされているので、主イエスに取り次いでいただくというわけではないのです。

 「その日には、あなたがたは私の名によって願うことになる」。そのあとに、主は続けて言われます。「私があなたがたのために父に願ってあげよう、とは言わない」(16章26節)。直接、神さまにお祈りするのは恐れ多いので、イエスさまにお願いして、イエスさまが弟子たちのため、父なる神さまに願ってくださる。イエスさまが弟子たちと一緒に過ごしておられたときには、そんなふうにして、すべてイエスさまに頼っていたのだと思います。けれども、これからは違う、と主は言われるのです。イエスさまにお願いして、祈りを取り次いでいただくというのではなくて、イエスさまのお名前によって、直接、父なる神に祈ることができるようになる。それは、イエスさまが、弟子たちのもとから去って行かれることによる恵みだと言ってよいのです。
 主イエスは、十字架と復活による救いの御業を通して、ご自身が父なる神のもとへ至るまことの命の道となってくださいました。主イエスは、ご自分の命を犠牲にして、父なる神と私たちの間に立ちはだかり、その関係を引き裂いていた私たちの罪という障害物を取り除いて、父なる神と私たちの間をつないでくださったのです。だから、私たちは主イエスの救いを受けて、主のお陰で、主にあって、父なる神に直接祈りと願いを申し上げることができるようになりました。主イエスの名によって祈る、というのは、そのすべてが主の救いの御業によることを現わしていると言ってもよいのです。

 私たちが、主イエスのことを知るようになり、主イエスを私の救い主として信じることができるようになったのは、私たちの知恵や力によるのではなくて、聖霊なる神の導きと力によります。私たちは、主イエスが地上での救いの御業を成し遂げて、ご自身をお遣わしになった父なる神のもとに戻られ、父なる神のもとから、主イエスの名によって聖霊が遣わされた、ペンテコステ以後の時代を生きています。最初から、聖霊なる神の働きの中に招かれています。そして、真理の霊である聖霊に導かれて、「イエスは主である」と信じる信仰に導かれ、父と子と聖霊の名による洗礼を授けられたのです。洗礼によって、主とひとつに結ばれて、主イエスの父である神が、私たちの父ともなってくださったことを知りました。神を父と呼ぶ御子の霊に包まれて、私たちも、神を「アッバ、父よ」と呼べるようになったのです。それと同時に、神がどれほどに、私たちのことを愛していてくださるかということを知らされました。ヨハネ福音書の第3章16節に記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神は、愛する独り子イエスをこの世に遣わされ、御子において、その死と復活によって、私たちを救おうとされるほどに、私たちを愛してくださったのです。
 弟子たちとの別れを前にして、主イエスが語られた約束は、今、確かに、私たちにおいて実現しています。主が弟子たちに語られた「その日」が、私たちにおいて実現しているのです。主は弟子たちに言われました。「父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(16章27節)。主イエスが、ご自身の十字架と復活によって、父なる神の愛を証ししてくださいました。大切な独り子を、私たちの救いのために、この世に与えてしまうほどに、神さまは私たちを愛してくださいました。主イエスを通して、私たちは、この溢れるほどの神の愛を、味わい知る。そのすべては、父なる神が御子を遣わしてくださり、御子が救いを成し遂げて父なる神のもとに帰られ、聖霊を送ってくださったことによるのです。この父・子・聖霊なる神による大いなる救いの御業にあずかって、私たちも神を知るもの、神を信じるもの、神を愛するもの、神を望むものとされているのです。

 弟子たちは、主イエスの言葉に応えるようにして言いました。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたがすべてのことをご存じで、誰にも尋ねられる必要がないことが、今、分かりました。これで、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます」(16章29~30節)。ここのところは、少し前後のつながりが分かりにくいかもしれません。恐らく、この言葉は、最後の晩餐において、主の言葉を直接聴いた弟子たちの告白というよりは、この福音書を最初に呼んだヨハネの教会の信徒たちの告白が重ねられていると言ってよいのではないでしょうか。主が去って行かれ、主の霊が注がれたことによって、主が語られた言葉の意味が分かるようになったのです。主イエスは、神の愛による救いを、その十字架と復活の出来事を通して、もはや誰にも尋ねられる必要がないほどに、はっきりと現わしてくださいました。聖霊のお働きにあずかることによって、そのことが分かり、主イエスが神のもとから遣わされた救い主であることを信じる、信仰の告白が与えられたのです。
 けれども、物語の舞台は、再び、最後の晩餐の場面に引き戻されることになります。聖霊を受ける前の弟子たちに向かって主は厳しくお答えになるのです。「今、信じると言うのか。見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が、共にいてくださるからだ」(16章31~32節)。確かに、この後、主イエスは弟子たちのための祈りを終えてから、谷の向こうの園のある場所に出かけて行かれます。そこで、主が裏切り者のユダに手引きされた兵士たちや下役たちに捕らえられると、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまうのです。しかし、そこにはまた、最初に福音書の言葉を聞かされたヨハネの教会の信徒たちの姿も重なり合います。主イエスを信じているということで、同胞であるユダヤ人の会堂から追放され、ローマ帝国による厳しい迫害にさらされる中で、信徒たちが散らされていく、という厳しい試練に直面するのです。さらに、それはまた、今日の私たちに告げられた言葉でもあります。かつての時代のように、厳しい試練に遭うことはなくなったとしても、日々の生活の疲れの中で、主について行くことができなくなる。主イエスを信じられなくなる。そして、そこから救い出されたはずの、古い家、かつて居心地良くこもっていた罪の自分に帰ってしまう。主イエスを放り出して、独りきりにしてしまう、そういう時が来ていると言われるのです。

 主イエスは、別れの説教が始まった14章の初めに言われました。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」(14章1~3節)。あなたがたの本当の住まいは、父なる神の家にある。私はそこにあなたがたのために場所を用意しに行くと、主は言われたのです。それなのに、弟子たちは主イエスを捨て、主を独りにしてしまいました。弟子たちは散らされて、自分の家に帰ってしまいました。ユダヤ人を恐れて、自分たちの家に逃げ込んで、鍵をかけて引きこもってしまいました。けれども、復活された主は弟子たちのいる家に入って来られ、真ん中に立って言われました。「あなたがたに平和があるように」(20章19節)。弟子たちの恐れと不安を振り払うようにして、平和を告げてくださったのです。
 主イエスは、すべてのことをご存じの上で、その別れの説教の結びにおいて、語られます。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(16章33節)。主イエスは十字架と復活を経て、天に昇られ、父なる神のもとから助け主、弁護者、真理の霊を送ってくださいました。主はご自身の霊において、いつも私たちと共にいてくださるのです。日々、さまざまな恐れや不安にさいなまれ、苦難とストレスに押しつぶされそうになる私たちに、主と共にある平和を告げてくださいます。世に打ち勝っておられる主が、私たちと共にいてくださり、私たちの後ろ盾になっていてくださいます。だから、恐れるな、勇気を出しなさい、と主は言われるのです。主イエスこそが、私たちのただ独りの主、まことの支配者です。だから、他の何ものにも支配されることなく、他の何ものをも恐れることなく、また捕らわれたり、惑わされたりすることもなく、主に従い行くことができるのです。