2023年9月10日 主日礼拝説教「赦された者たちの集い」 東野ひかり牧師

イザヤ書第57章14~19節
マタイによる福音書第18章15~20節

 本日『椎の樹322号』が発行されました。先月行われた教会全体修養会の特集号です。来週17日に行われます修養会の「恵みの分かち合い」の会に間に合うようにと、書記部の方々には少し無理をお願いして、本日の発行としていただきました。分団の報告も詳しくなされて、お二方の証しも載って、最後には参加された方々の感想文までも載っていまして、とても読み応えのある充実した紙面になりました。修養会に参加された方々も、参加の叶わなかった方々も、皆さまに読んでいただいて、来週の恵みの分かち合いの会には、ぜひ多くの方がご出席くださって、実りある分かち合いの会ができればと願っております。
 さて今朝は、マタイによる福音書の第18章から、共にみ言葉を聴いてまいりますが、なぜこのところを選ばせていただいたかと申しますと、私なりにもう少し全体修養会での学びを続けてみたいと思ったからです。『椎の樹』に載りました通りのことですけれど、修養会では、「教会とは何か、教会は何をするのか」という事柄を中心に学びが深められ、「礼拝共同体としての主にある交わりの再建」ということを共に考えました。今朝は、修養会で学びましたのとはまた少し別の角度から、「教会とは何か、教会は何をするのか」ということを、しばらくの時、み言葉から共に聴いて参りたいと思うのです。

 以前にもお話したことがありますが、このマタイの第18章というのは、その全体を指して〈教会憲章〉と呼ばれる箇所です。いわば主イエスご自身が、「教会とは何か、教会は何をするのか」ということを、集中して弟子たちにお教えになっている箇所と捉えることができます。修養会の主題講演の中でも、このマタイの第18章に触れられていました。この第18章の中心に位置する部分が15~20節です。
 ここには、「きょうだいが、あなたに対して罪を犯したなら」どうすればよいか、ということが、たいへん丁寧に語られています。教会の中で、教会の仲間が罪を犯したら、その人に対してどうすればよいか。少し硬い表現ですけれど、教会は「罪」をどう処置するべきか、罪を犯した人をどう扱ったらよいのか、ここには、そのことが丁寧に指示されています。ここに語られています事柄は、後に教会の「戒規」となっていきます。教会訓練、disciplineとも言われますが、教会が健全な〈キリストの教会〉であるための道筋・手順を定めたものとして、この主イエスの言葉は、教会の中で、特に大切にされてきました。ここに示されていますのは、教会が〈キリストの教会〉として、十字架の赦しの恵みのもとにしっかりと立ち、その恵みに徹底的に生き続けるための主イエスが示してくださった手順と言えます。
 ここで語られていることをすべてきちんと説き明かそうと思ったら、30分程度の説教ではとうていできないと思います。もしかしたら、この第18章全体を学ぶだけでひとつの修養会の主題になるほどのことではないか、とも思います。けれど、このところで語られていることを、私なりにとらえてあえてひと言で言うとしたらということを考えて、今日の説教の題をつけました。「赦された者たちの集い」。もっと正確に言えば「赦された罪人たちの集い」。教会は、赦された罪人たちの集いであり、その赦された罪人たちの集いである教会は、どのようにして、その赦しの恵みに生き続けるのか、そのことが、ここに丁寧に教えられているのです。
 
 バーバラ・ブラウン・テイラーという、アメリカ聖公会の説教者がおられます。この方のマタイによる福音書の説教集『天の国の種』という本があります。その中に今日のこの箇所の説教も載っているのですが、とても面白い題がつけられています。「家族のけんか」というのです。この説教は、〈教会という神の家族の中でも、私たちの家庭の中できょうだいげんかが起こるようにけんかが起こる、そのときにどのように仲直りをしていくのか、その手順を主イエスがここに教えてくださっている〉というように語られています。
 このとても魅力的でユニークな説教は、このように語り始められます。〈マタイによる福音書18章全体を通して、そして、ことにこの六つの節(15~20節)において、主イエスが強調なさっているのは、キリスト者の共同体(=教会)の重要性です。主は弟子たちに語りかけながら、あなたがたの信仰は個人の事柄ではない、気の向くままに出かけて行って木の下でひとりの時間を満喫するようにことではない、と教えておられます。キリストにある生活とは共同体(教会)の事柄であり、二人または三人が主の名によって集まるときに生じるものなのです。主ご自身がその中にいる、と約束されているのは、そのときにこそ(二人または三人が主の名によって集まっているときにこそ)であり、弟子たちが気の向くままに出かけて行って、神聖な気分に浸っているときではありません。 別の言い方をするなら、主は、弟子たちにとって互いが必要であることを教えておられます。—実際的な理由からだけではなく、霊的な理由からも、弟子たちには互いが必要です。それは、自分たちが一つの家族(=教会)に属していることを思い起こすためです。……)〉
 
 皆さまは、こんなことをお考えになることはないでしょうか。「自分ひとりで神さま、イエスさまを信じている、というだけではやはりだめなのだろうか、ひとりで神さまとイエスさまとの交わりに生きていればよいということなら、もっと気楽に信仰生活を送れるのに。」こんなふうに思ったことはないでしょうか。私は、以前よくこんなふうに思っていました。バーバラ先生は、この説教の終わり近くで、こういうことも言っておられます。〈いろいろな意味で、家族に(教会に)属しているということは実に厄介です。もしも私たちが個人の寄せ集めであって、似たような信念によってゆるやかに結ばれているだけであり、そこに起こる問題は、本質的には私たちと神と間のプライベートな問題でしかないということなら、どんなにか楽でしょう。〉
 教会に生きるということ、これは大きな恵みです。けれど一方で、それは時に〈厄介〉だということも、私たちは感じることがあるのではないかとも思うのです。教会は、キリストの教会であり、神の教会であり、キリストとの交わり、神との交わりがその「交わり」の中核にあるわけなのですけれど、しかしそこに生きているのは私たち罪人です。そこでどうしても「罪」に直面させられます。傷つけられたり、傷つけてしまったり、ということが起こるのです。
 「きょうだいがあなた(私)に対して犯す罪」が問題にされています。けれどそれは同時に、「私がきょうだいに対して犯す罪」でもります。その罪のゆえに、その痛み、その傷のゆえに、きょうだいが教会の交わりの中からいなくなる、失われるということが、起こるのです。あるいは、自分自身が、教会の交わりから離れたくなる、少し距離を置こうと思ったりする、そういうことが起こります。

 植村正久という日本のプロテスタント教会の最初期に指導的役割を果たした牧師がいます。この植村先生もまた、バーバラ先生と同じようなことをある説教の中で語っておられます。「都と田舎」という題のこれもまたたいへんユニークな説教です。今から120年も前の説教ですが色褪せません。夏休みに入る前の7月の日付がつけられている説教です。これから夏休みになって、海に山にと、あるいは田舎へと行く人もあるだろう、その前にひと言ご注意申し上げる、というような感じの説教で、とっても面白い説教です。こういうことをおっしゃっています。
 〈田舎に行かれるのもよいが、そこで精神上の個人主義に陥らないようにご注意申し上げる。独りで善しとすまし込んでみたり、自分独りで神に仕えることで満足したり、こういった宗教上の個人主義は、またの名を霊性上の傲慢と言う。信仰上の兄弟姉妹と共に歩むことを厭い、しばらく独りで信仰生活をすると言う人がある。もちろん、我々はしばしば独りになるのもよい。独りにならねばならぬ時もある。これはイエスが山に登って独り祈られたように我々にも必要です。けれども、精神上の個人主義、信仰上の傲慢には陥りたくはないものです。…船が荷を積まない時は至極危険ですよ。すこしの風でもひっくり返る。船は荷がなければわざわざ荷をこしらえて積んでまいります。どうも、きょうだいのない信仰生活には危険が多い。海辺や山の中に独りでぶらぶらして生活するのは、大変気楽なようであるが、その中にはなかなか危ないことがある。幾多の罪悪がある。信仰の冷却もあるであろう。責任のない生活、気楽な生活、荷物を積まない船の生活は、糸の切れた凧のように、(神から離れて)どこへ飛んで行くのであろうか…〉

 主イエスは、15~17節で、弟子たちに、「あなたがたにはきょうだいが必要です」と言っておられます。きょうだいなしの信仰生活は危険ですと言っておられるのです。そしてもしもきょうだいが、神から離れてどこかへ飛んで行ってしまった、神さまに背を向けて、神さまのもとから、教会から、迷い出てしまったなら、あなたは何としてでもそのきょうだいを取り戻すために手立てを尽くさねばなりませんとおっしゃっているのです。
 すぐ前の18:14ではこのように言っておられます。「そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない。」そしてその直前に、他の99匹を山に残してでも、迷い出た一匹を捜しに行く羊飼いのたとえを語っていてくださいます。
 私たちは皆、一人ひとりが、この迷い出た一匹の羊であった者です。羊飼いである主イエスが、そのいのちをかけて、迷い出た一匹の羊を見つけ出すために出て行き、捜し出し、連れ戻してくださった一人ひとり。主イエスに抱き抱えられて父なる神のもとに連れ戻していただいた、そのような一人ひとりです。教会というのは、そのようないなくなっていたのに見つけていただいた者たちの群れです。
 また、21節以下で主イエスが語っていてくださるのは、一万タラントン、日本円に換算すれば6000億円にもなるそうですが、それほどの借金・負債、すなわちそれほどの莫大な巨大な罪を、全部帳消しにしていただいた家来の話です。私たち一人ひとりは、そのようなすさまじく巨大な、莫大な罪を、ただ神さまが憐れに思ってくださったがゆえに帳消しにしていただいた者だと示されています。御子なる主イエスが、私たちの莫大な罪を身代わりに担ってくださって、そのいのちと引き換えに、莫大な負債を帳消しにしていただいた者なのです。あなたがたは、神さまの、まことに莫大な憐れみ・愛をいただいて、罪を赦していただいた、そのような実に大きな赦しの恵みをいただいた、そういう一人ひとりだと、主イエスはそのように語っておられます。教会というのは、そのような巨大な罪を赦していただいた者たち、莫大な恵みをいただいた者たちの群れなのです。

 そのような赦された罪人たちの集まりである教会、その神の家族の中でけんかが起こったとき、仲たがいが起こったとき、どうすればよいのか。主イエスはここにそのことを語られます。きょうだいの罪によってあなたが傷を受けた、そのときあなたはどうすればよいのか。あなたに傷を負わせたきょうだいは、それによって群れからいなくなってしまった。神に背を向けて離れて行ってしまった。あなたのきょうだいであることをやめてしまった。そのときに、主イエスは、「あなたのきょうだいを放っておいてはいけない、そのきょうだいのところに行きなさい」と言われるのです。行くだけではなくて二人だけのところで、そのきょうだいをとがめなさい、そしてそのきょうだいをあなたのきょうだいとして取り戻しなさいと言われています。「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。」(18:15)
 しかし私たちは、ここで立ちどまってしまいます。このようなことができるのだろうか。いくらそのきょうだいを、きょうだいとして取り戻すためと言われても、罪の赦しの恵みに共に生きるためと言われても、それこそが父なる神の御心なのだからと言われても、私たちは、罪を犯した、もっと具体的に、自分に対して罪を犯した、傷を負わせた、そのようなきょうだいのところに自分から行くなんて、まずできない、そう思う。かろうじて何とか行けたとしても、そのきょうだいの前で平静でいられるか分からない、どんな顔をして会ったらよいのか分からない。「とがめる」なんてとんでもない、普通に話すことだってむずかしい、そう思うのではないでしょうか。
 
 しかし、もしもその罪を犯した人が、罪を犯したまま、神さまのもとからいなくなったまま、失われたままであるなら、その人はどうなるのでしょうか。滅びてしまうのです。罪を犯す、神さまのもとからいなくなる、きょうだいがきょうだいでなくなる、失われる、ということは、滅びる、ということです。だからこそ、主イエスは、99匹を山に残したままにしてまで、いなくなった一匹を捜しに行く羊飼いの話をしてくださったのです。巨額な借金さえも帳消しにする憐れみ深い王さまの話をしてくださったのです。「一人も滅びてはならない」。それが父なる神さまの御心だからです。教会は、この神の御心に従うところです。この神の御心を行なう群れなのです。あなたもきょうだいに対して罪を犯して、もっとひどい罪を犯して、それを赦していただいた、憐れみ・恵みをいただいた者、だから、あなたもきょうだいを赦してやらないでどうする?と、主イエスは言われるのです。あなたには、この罪を犯したきょうだいが必要、このきょうだいを赦すことが必要、その赦しに生きることが必要なのだと、主イエスは言われる。それが教会というところだと示されているのです。
 「とがめる」と訳された言葉は、「光にさらす、明るみに出す」という意味の言葉だそうです。罪を犯したきょうだいを「とがめる」というのは、この人はこんなことをしたと大声で言い立てるというのでも、罪を糾弾してその人を叩きのめすということでもありません。そうではなくて、ひとりも滅んではならないと望んでいてくださる神さまの大きな赦しの光、救いの光、主イエスの十字架の光の中に、その人と一緒に立つのです。その人の罪も、また自分自身の罪も、神さまの圧倒的な赦しの光の中に置くのです。相手の罪だけをその光の下にさらすのではない、その人の罪だけが光にさらされて暴かれるのではない、自分の罪もそこで暴かれる。そして共に、一緒に、悔い改めるのです。神のもとに帰るのです。そうやって「きょうだい」の関係を回復するのです。

 主イエスはここで、教会は赦しの恵みに徹底的に生きる群れだということを教えていてくださいます。そうでなければ、教会はキリストの教会ではないのです。教会は何をするのか。きょうだいと一緒に、神の巨大な赦しの恵みの中に立ち続けるのです。あらゆる手立てを尽くして、この赦しの恵みの中から出て行ってしまった人を連れ戻さなければならない、取り戻さなければならないのです。そしてその恵みの中に共に立ち、共に赦しの恵みの中で悔い改めて、その恵みの中で共に生きるのです。
 16~17節は、そのための手順・手段を丁寧に教えています。17節の「もし教会の言うことも聞き入れなければ、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」という言葉は、どきっとさせられるものかもしれません。もしも何をしても、何を言っても、その人が赦しを受け入れず、悔い改めて恵みの中に戻ろうとしなかったなら、神さまのもとから離れたままに生きようとするならば、その人を教会から閉め出しなさいと言われているのか。そう思う方もあるかもしれません。実際そのような意味の言葉だと理解されたこともあったようです。けれども、この「異邦人か徴税人」というのは、主イエスがそのような人々、すなわち「罪人」と呼ばれ見なされて蔑まれた人々をこそ救おうとなさった、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9:13)とおっしゃったことを想い起すならば、この言葉は、決してその人を見捨てるとか、閉め出すという意味のことではなくて、むしろ罪人たちへと激しく向かう主イエスの憐れみの中にその人を委ねるということだと捉えられます。
 教会は、そのようにして、徹底的に、きょうだいを主の恵み、主の赦しの恵みの中に置くのです。そのようにして自分自身もまた、主の赦しの恵みの中に生きるのです。

 18節にはこうあります。「あなたがたが地上で結ぶことは天でも結ばれ、地上で解くことは天でも解かれる。」不思議な言葉です。これは教会のつとめを語っています。結ぶとは、罪に結ぶ、解くとは、罪から解く、ということです。教会は、罪を赦す権威・その力を主イエスから与えられています。罪と死の力に勝つ力を与えられているのです。畏れ多いことです。けれども教会はそれを託されている。罪を犯したきょうだいを、罪に結ばれたまま、罪に捕らわれたままにしてはおけないのです。神さまの巨大な赦しの恵みの中に何としても取り戻して、連れ帰って、一緒にその恵みの中に立って、一緒に罪を悔い改める、一緒に罪を認めて十字架の赦しの中に生きる。神の恵みの光の中に生きる。そうでなければ教会はキリストの教会ではない。主にある交わりではなくて、ただのお交わりになってしまうのです。
 けれども、ここで主が教えてくださっているとおりに行う、そのように生きるということは、やはりとても難しいことです。15~17節で教えられているとおりのことを実際にしてみようとするならば、私たちはどうしても立ちどまってしまうのではないかと思います。赦す、徹底的に赦す、ということは、ほんとうに厳しいことだと思います。21節以下のたとえの家来のように、一万タラントン(6000億円)赦されていても、百デナリオン(100万円程度の借金)を赦すことができない。私たちはそのような者だと思わざるを得ないのです。どんなに多くを赦されていても、自分が傷を受けたなら、それがどんなに小さい傷でも簡単に赦すことはできない。それが私たちではないかと思うのです。

 19~20節は、この第18章の文脈の中で読むとき、私たちに赦しに生きる道を示してくれます。19節の「二人」は15節の「二人」、20節の「二人または三人」は、16節の「二人または三人」です。罪を犯したきょうだいと罪を犯された人、傷を与えた人と傷を受けた人の二人。そしてそこに共に立つ教会の仲間が加わった三人。それがここに言われている「二人または三人」です。この二人が、この二人または三人が、「地上で心を合わせて願う」ということが言われているのです。二人が、または三人が、「心を合わせて願う」、すなわち「祈る」ということがここに言われています。
 罪を犯したきょうだいと共に神の光の中に立つ、神の赦しの中に立つ、それは、「心を合わせて願う、祈る」ことによってはじめて可能となのです。共に祈るのです。このきょうだいのために、そしてこの私のために、命を捨てて十字架についてくださった、主イエス・キリストの御名によって、共に祈るのです。罪の赦しを求めて祈るのです。「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と、主が教えてくださった祈りを祈るのです。この祈りの中でしか、私たちは罪の赦しの恵みの中に徹底的に立つことはできないでしょう。主にある交わりを喜び、共に生きることはできないでしょう。
 「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」心を合わせて共に祈るとき、とりわけ、罪の赦しを願って共に祈るとき、そこに、確かに主イエスが共にいてくださる。主の力が、赦しの力、救いの力がそこに働いてくださる。そして巨大な罪の山が動くのです。赦すことができないかたくななこころが溶けるのです。
 教会は、このような祈りの共同体です。この礼拝そのものがそのような祈りです。この礼拝に、み言葉の説教を聴くときに、聖餐にあずかるときに、ここに主イエスがおられる。ここで、私たちは主イエスの赦しの力にあずかります。主イエスが与えてくださったまことに大きな罪の赦しの恵みに、きょうだいと共にあずかります。ここで、私たちは心を合わせて祈るのです。

 「心を合わせる」という言葉は、シュンフォーネオーというギリシャ語です。シンフォニーの語源です。この礼拝からシンフォニーが響く。聖餐の食卓からシンフォニーが響く。赦された者たちの喜びの音楽が響くのです。
 バーバラ先生は、教会は地獄のようなこの世界のただ中で、音楽を奏で、天国のパーティーを開いているような人たちだと言って説教を閉じておられます。神をほめたたえる歌を歌い、赦しの食卓を共に囲み、笑いあっている私たちのこのパーティーを見て、遠くに行ってしまった人たちは、この騒ぎ、この輝き、この喜びは何かと、戻って来たくなるだろう、と言うのです。
 赦しの恵みに、共にあずかりましょう。共に喜び祝いましょう。私たちは、巨大な罪を赦していただいた、赦された罪人たちです。感謝をいたします。