2023年7月23日 主日礼拝説教「主イエスは良い羊飼い」 東野尚志牧師

エゼキエル書 第34章1-16
ヨハネによる福音書 第10章11-21節

 「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。皆さんは、この聖書の言葉を耳にしたとき、どんな思いを抱かれたでしょうか。羊飼いと羊のイメージが心の中に浮かび上がって来たでしょうか。普段の生活の中で、羊飼いや羊の姿を目にすることがない私たちにとって、分かりやすいたとえとは言えないのかもしれません。きょうの礼拝は、その最初から、この御言葉を味わうための準備をしてきたと言ってよいと思います。さしずめ、羊飼いと羊づくしという感があります。最初に告げられた招詞、礼拝への招きは、詩編100編の言葉を読みました。「主こそ神と知れ。主が私たちを造られた。私たちは主のもの。主の民、その牧場の羊」と告げられました。
 続いて歌った最初の讃美歌、第2編41番の讃美歌は、スコットランドの詩編歌として、よく知られている歌です。16世紀の宗教改革によって生まれた改革派の教会は、詩編の言葉をパラフレーズして歌う詩編歌という美しい伝統を生み出しました。もともとユダヤ教では、詩編の言葉そのものを、幾つかの節回しに合わせて歌ったようですから、その伝統を受け継いだとも言えます。第2編の41番は、スコットランド詩編歌の代表作の一つです。詩編23編の言葉を解きほぐすようにして、「主はわが牧者(かいぬし)われはひつじ、み恵みのもとに こころ足れり」と歌うのです。

 続いての交読文では、その同じ詩編23編を、司式者と会衆とで読み交わす、交読という形で味わいました。「主はわが牧者なり」「われ乏しきことあらじ」と言葉を交わしました。主の祈りに続く聖書朗読では、ヨハネによる福音書第10章の御言葉に合わせて、旧約聖書からエゼキエル書第34章の御言葉を読みました。聖書協会共同訳では、「悪い牧者と良い牧者」という小見出しが掲げられています。主なる神が、ご自分の民であるイスラエルを導くため、牧者として遣わした指導者たちは、群れを養わず、自分だけを養っている、自分の利益ばかり求めて、群れを牧していない、その実態が暴かれ、厳しく咎められていました。そして、神ご自身が、牧者となって、自ら散らされた民を探し出して連れ帰り、ご自分の群れを養うと宣言されるのです。
 エゼキエル書とヨハネによる福音書の聖書朗読と祈祷に続けて、先ほど歌いました讃美歌、讃美歌の258番は、宗教改革者ルターの代表作の一つであると言われます。詩編130編をもとにしながら、自由に意訳して歌われています。ドイツ語で歌われるコラールの名曲だと言って良いと思います。日本語では、最後の4節で歌います。「わが罪あやまち 限りもなけれど、底いも知られぬ 恵みの御手もて イスラエル人を 救いしみかみは、げにわが牧者ぞ」。私たちを、深い罪の淵から救い出してくださった神さまこそが、まことに私たちの牧者、飼い主であると歌うのです。

 御言葉と讃美歌によって導かれ、備えられて、私たちは、改めて、冒頭の主の言葉を聞きます。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。「私」と語っておられるのは、主イエス・キリストです。主イエスは、ご自分こそが、良い羊飼いであると言われます。そして、この羊飼いによって養われ、導かれる羊は、私たちです。主イエスは、羊である私たちのために命を捨てる、と言われるのです。ここでは、良い羊飼いの姿が描かれるだけではありません。羊飼いではない雇い人の姿も描かれます。エゼキエル書では、「悪い牧者と良い牧者」という見出しが立てられていましたけれど、そもそも、悪い牧者は牧者ではないのです。
 主イエスは、冒頭の11節に続けて12節と13節で言われます。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」。羊の番をするようにと、雇われただけの人は、羊飼いとは呼べません。雇い人は、自分の羊を持っていないからです。自分の羊ではないので、いざとなれば、羊を見捨てて逃げてしまいます。狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げるのです。自分の身を盾にして、羊を守ろうなどという考えはさらさらない。自分のものではない羊を、そこまで心にかけてはいません。自分の身が危うくなれば、平気で羊を置いて逃げるのです。

 しかし、よく考えてみれば、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」というのは、決して、当たり前のことではないと思います。いやむしろ、驚くべき言葉です。確かに、羊のことを心にかけている羊飼いは、狼が襲ってきたら、大事な羊を守るために、自分の身を盾にして、命がけで戦うということはあるでしょう。運悪く、狼の力に負けてしまって、命を落とすことがあるかもしれません。その覚悟で戦うということでしょう。けれども、たとえどんなに羊のことを心にかけている羊飼いであっても、最初から自分が羊の身代わりになって死ぬということはありません。羊飼いが死んだら、後の羊を守ることができません。自分が死なないようにしながら、できる限り、羊を守ろうとするのです。
 けれども、主イエスは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる覚悟がある」と言われたのではありません。「良い羊飼いは羊のために命をかける」と言われたのでもありません。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。それは、良い羊飼いすべてに当てはまることではありません。たったひとりの羊飼い、主イエスご自身のことです。主イエスが、十字架にかかって、私たちの身代わりとなって死んでくださった、主イエスが私たちのために命を捨ててくださった、その事実を告げているのです。それは、主イエスの十字架の死の予告であり、十字架の証言だと言わなければなりません。良い羊飼いである主イエスは、羊である私たちを罪と死の支配から救い出すために、ご自分の命を捨ててくださいました。ご自分の命を犠牲にして、私たちを滅びの中から救い出してくださったのです。

 この羊飼いと羊の関係は、もはやそのたとえを越え出てしまうほどの、深い絆で結ばれていると言わなければなりません。だから、主イエスは、14節で、改めて宣言なさいます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」。羊が自分の羊飼いを知ることについては、すでに10章の初めのところでこんなふうに言われていました。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。しかし、ほかの者には決して付いて行かず、逃げ去る。その人の声を知らないからである」(10章3~4節)。羊は、自分の飼い主である羊飼いの声を知っているというのです。ちゃんと他の人の声と聞き分けて、自分が知っている羊飼いの声に付いて行くというのです。そこでもすでに、羊飼いに対する羊の信頼が美しく描かれています。けれども、実は、そこで用いられていた「知る」という言葉と、14節で用いられている「知る」という言葉は、もとのギリシア語が違います。同じ「知る」でもその次元が違うのです。
 10章の初めのところで用いられている「知る」という言葉は、普通に事実として知っている、とか、覚えているという意味です。けれども、14節で主イエスが、「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」と言われるとき、そこで用いられている「知る」という言葉は、夫婦の交わりを指す場合にも用いられる言葉です。全身全霊を傾けるようにして、互いを受け入れ合い、愛し合う、そういう深い交わりにおいて「知る」ことを意味します。良い羊飼いである主イエスは、そのように深くまた熱く、羊である私たちを知っていてくださるのです。果たして私たちは、それほどに深くまた熱く、羊飼いである主イエスを知っていると言えるでしょうか。心許ない思いがします。けれども、主イエスご自身が、私たちをご自分の愛の中に包み込むようにして、「私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」と語ってくださいます。主イエスが、私たちをご自分のものとしてくださり、私たちを知っていてくださるからこそ、私たちも、主イエスのものとして、主イエスを深く知り、主イエスと共に生きる者となるように招かれているのです。

 羊飼いである主イエスと羊である私たちの交わりは、さらに、驚くべき恵みの光の中に置かれることになります。14節に重ね合わせるようにして、主イエスは、続けて15節を語られます。14節から続けて読んでみます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる」。私たちが主イエスを知り、主イエスが私たちを知っていてくださる、その関わりと交わりは、父なる神が御子である主イエスを知っておられ、御子である主イエスが父を知っておられるのと同じ関わりの中で生きることだと言われるのです。父なる神と子なる神主イエスの間の交わりは、言葉では表せないほどの深い信頼と愛の絆で結ばれていると言って良いと思います。御父と御子は一つであると言ってもよいのです。
 父なる神は、独り子である御子イエスを愛しておられ、また御子を信頼しておられるからこそ、御子をこの世にお遣わしになりました。神に背を向け、神のもとから迷い出てしまった私たちを連れ戻すために、御子をこの世に送ってくださったのです。そして、御子は、父なる神の御心を行うために、神から遣わされてこの世に生まれてくださり、神の御前から失われていた私たちを、神のものとして取り戻すために、十字架への道を歩まれました。神と私たちの間を引き裂いていた私たちの罪を取り除くために、ご自身の命を犠牲にして、罪の償いを完全に成し遂げてくださったのです。そのような御父と御子との間の深い信頼と愛の絆が、主イエスと私たちとの間にも造られているというのです。そのために、主イエスは命を捨ててくださった。良い羊飼いとして、羊のために命を捨ててくださったのです。

 そのような父なる神と御子イエスとの絆があればこそ、主イエスが命をお捨てになって、それで終わりにはなりませんでした。主イエスは、ご自分の命について、さらに語られます。17節以下です。「私は命を再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。誰も私から命を取り去ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた戒めである」。主イエスは、確かに、父なる神の御心に従って、十字架への道を歩まれました。目に見える事実としては、弟子の一人であったユダによって裏切られ、ユダヤ人たちの悪意と妬みによって、不法な裁きを受けて、ローマの総督ピラトのもとで十字架刑に処せられました。しかし、主イエスは、誰かに強いられてではなくて、自分の意志で命を捨てるのだと言われます。羊である私たちを愛して、私たちのために命を捨ててくださったのです。それは、御子である主イエスの、父なる神の愛への応答でした。主イエスは、決して、無理矢理十字架を負わされたのではありません。父なる神の愛と信頼に応えて、そしてまた、私たちに対する愛のゆえに、ご自分で十字架を追ってくださったのです。
 さらには、「命を再び受けるために、捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と言われました。「できる」と訳されているのは、「権威」を意味する言葉です。その権威があるということなのです。主イエスは、ご自分には、命を捨てる力もあり、それを再び受ける力もある、と言われたのです。共観福音書においても、主イエスは、十字架の予告をされるとき、三日目に復活するということも同時に告げておられました。神の御心は、十字架で終わるのではありません。罪の贖いで終わるのではありません。主イエスの復活を通して、私たちにも新しい命の道が開かれ、新たに生まれる恵みが備えられるのです。

 しかも、この恵みは、私たちを超えて、さらに多くの人たちに広げられていきます。16節でこう言われています。「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」。「この囲い」というのは、今、主イエスという羊飼いのもとに養われている羊の群れ、つまり、教会を指していると言ってよいと思います。私たちは皆、羊飼いである主イエスによって名を呼ばれ、主イエスを救い主と信じて洗礼を受け、教会という「囲い」の中に入れられるのです。けれども、主イエスは、この囲いに入っていないほかの羊もいる、と言われます。主は言われました。「その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」。動詞は未来形で書かれています。今、そうなっているわけではありません。しかし、必ず、そうなると主は言われます。だからこそ、囲いの外にいる羊をも導かなければならない、と言われるのです。
 「その羊をも導かなければならない」と訳されているところには、「デイ」という小さな言葉が用いられています。神さまの救いのご計画を表わすときに用いられる大事な意味を担う言葉です。神さまのご計画において、そうなることになっている、というのです。神さまの御心に従って、主イエスはそれを必ず進めていかれます。それによって、囲いの中にいる羊も、囲いの外にいる羊も、羊飼いである主イエスの声を聞き分けて、「一つの群れ、一人の羊飼いとなる」と言われるのです。

 「一つ」という言葉を正しく受けとめるためには、少し先回りをして、第17章の記事を味わう必要があると思います。この17章は、主イエスが弟子たちと一緒に、最後の晩餐をなさりながら、その席で祈られた祈りを記しているところです。「大祭司の祈り」とも呼ばれます。深い執り成しの祈りです。17章の20節で、主イエスは祈っておられます。「また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします」。主イエスは、ご自分が復活された後、弟子たちが主イエスを宣べ伝えるようなり、その言葉を聞いて、主イエスを信じるようになる人たちが生まれることを見ておられます。それは、私たちのことと言っても良いと思います。後の教会の姿を思い浮かべながら、続けて父なる神に祈られます。「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります」(ヨハネ17章21~23節)。
 今、羊の囲いの中にすでに入れられている者たちが、外にいる者たちをも招き寄せながら、一つになる姿を、主は望み見ておられます。しかも、ここでもまた、父なる神とご自身との交わりの姿が、私たちの間にも実現することを祈っておられます。父なる神と御子イエスが、相互に内在するようにして一つであるのと同じように、すべての者が、御父と御子との交わりの中で、一つになるようにと願っておられるのです。それはまさに、主イエスによって知られ、主イエスを知ることにおいて、主イエスと一つに結ばれることによって、主イエスの中で、私たちが一つになる。そのようにして、私たちが、父なる神と子なる神との交わりの中に、共に生きるようになることを望み見ておられるのです。

 真の羊飼いはただ一人であるにもかかわらず、羊たちは勝手に囲いを作って、分裂したり、対立したりを繰り返しています。二千年の教会の歴史は、分裂の歴史でもありました。しかし、羊飼いである主は、分裂した教会の囲いをも乗り越えるようにして、私たちを「一つの群れ」として導いてくださるのです。地上でささげられる礼拝が、天の礼拝につながることにおいて、「一つの群れ、一つの羊飼い」としての教会の姿が見えてきます。主イエスが今も、私たちのために執り成しの祈りをささげていてくださり、私たちの名を呼び、大きな一つの神の民の群れの中で養い、導いてくださいます。この天とつながる礼拝にこそ、私たちの命があり、私たちの望みがあり、私たちの使命があります。囲いの内と外を越えて広がる、主の民の群れの豊かさを望み見ながら、私たちも、この礼拝の中から遣わされていくのです。主と共に、主に導かれて、主の民の一員として歩むことができますように。