2023年1月15日 主日礼拝説教「愛しなさい」 東野ひかり牧師

マルコによる福音書 第12章28~34節
申命記第6章4~9節、レビ記第19章17~18節

 私がこのように説教卓に立たせていただきますときには、原則として、マルコによる福音書からみ言葉を聞いてまいりましたが、厳密にマルコ福音書を連続して説く、ということはいたしませんで、間を飛ばしたりしながら、その時その時に与えられました箇所を説くという形を取らせていただいてまいりました。そのようにして、少しずつマルコ福音書を先に読み進めてまいりまして、第12章に至りました。
 この第12章の舞台は、エルサレム神殿の境内です。そして、時は、マルコによる福音書の日付に従って言いますと、「過越し祭と除酵祭の祭りの」三日前、ということになります。私たちの曜日で言うなら、1 週間の中の火曜日のことです。この週の金曜日には、主イエスは、十字架につけられて殺される、そのような時の、エルサレム神殿の境内での主イエスのお姿が、この第12章に記されております。

 今朝は、その第12章の28節以下をご一緒に読んでまいりますが、ここにひとりの律法学者が登場いたします。28節「彼らの議論を聞いていた律法学者の一人が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て」。
 「彼らの議論」とありますのは、直接には、すぐ前の部分のことを指しております。第12章18~27節に、主イエスがサドカイ派の人々と「復活について」の問答・議論をなさった様子が記されています。この律法学者は、主イエスがサドカイ派の人々となさった議論を「聞いて」おり、主イエスが彼らに対して実に立派に、みごとにお答えになった、その様子を「見て」いたということです。けれど、マルコによる福音書を、間を飛ばしたりしないで読んでおりますと、この律法学者は、ただこの前のところの主イエスとサドカイ派の人々との議論の様子を見聞きしていたというだけではなかっただろうと想像できます。もっとずっと前から、この人は、神殿の境内での主イエスの言動を見聞きし続けていたのではないか、注視し続けていたのではないかと思われます。
 この火曜日の日の話は、第11章20節から始まりますが、第11章の27節から、この日主イエスが神殿の境内でなさった一連の議論・論争が記されます。11:27~33 には、祭司長・律法学者・長老たちとの間で交わされた主イエスの権威を巡る議論が記されています。12:1~12のぶどう園と農夫のたとえを挟んで、12:13~17にはファリサイ派とヘロデ党の人たちとの「皇帝への税金」を巡っての議論があります。そして12:18~27 にはサドカイ派の人たちとの復活についての議論が記されます。11:27 以下には、主イエスの前に入れ替わり立ち現れる質問者たちとの間に交わされた3つの「議論」が記されております。12:28に「彼らの議論を聞いていた」とありますこの議論というのは、これら3つの議論・論争も含んでいると考えてよいと思います。
 この律法学者は、次々に繰り広げられた、主イエスと質問者たちとの間の議論をずっと耳をそばだてて聞いていたのでしょう。他の律法学者たちや、祭司長たち、長老たちは、主イエスに対する敵意や悪意を募らせていました。けれどもこの人は、そうではありませんでした。おそらくこの律法学者もまた、11:27以下で問われているように、「いったい何の権威で、誰からの権威で」このイエスという人は、このようなことを語り得ているのかと、思っていたでしょう。そう思いながら、このイエスという人はいったい何者なのか、誰なのか、という問いをも抱いたかもしれません。しかしこの人は、他の人々のように主イエスに対して反感や敵意を抱いたのではなく、むしろ好意を抱いたようです。主イエスというお方に強く心を惹かれ、その言葉に感嘆しているのです。
 28節に「イエスが立派にお答えになったのを見て」とあります、この「立派に」と訳された言葉は、「良い」とか「美しい」という意味もあります。この人は、主イエスの言葉のすばらしさに、心を打たれている様子なのです。そして少し先取りをいたしますが、32節には、主イエスがこの律法学者の質問にお答えになった後のこの人の反応が記されておりますが、実はここにも、「立派に」と訳された言葉と同じ言葉が、日本語には訳されていませんけれども書かれてあります。直訳すれば「ご立派です、みごとです、先生、おっしゃることは真実です」と、この人が主イエスの答えにいっそう感嘆し、敬服している様子を読むことができます。
 ある方は、この律法学者は、もう主イエスを信じて、主イエスに従う弟子になる、私たちで言うならば、洗礼を受けるその直前のところに来ている、立っている、という意味のことを言っています。主イエスの存在に驚き、主イエスに感服し、そしてその言葉に心打たれて心砕かれ、「主よ、みごとです、そのとおりです」と応じている姿は、ほとんど信仰を言い表しているようなものだ、ということでしょう。そして34節では、主イエスはこの人に、「あなたは神の国から遠くない」と、言っておられるのです。

 主イエスの存在と言葉に、心打たれ、感服しながら、この人は、主イエスにひとつの、そしてとても重要な質問をいたします。
あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか。
「あらゆる戒め、すべての戒めの中で、どれが第一のものか」。これは、当時のユダヤの律法学者たち、ラビと呼ばれる律法の教師たちにとって、重大な関心事であったそうです。ユダヤの人々の多くは、モーセの十戒から細分化された、613 もある掟を守って、生活の隅々に至るまで神の言葉に従って生活しようと努めた人々でありました。けれど、600 幾つもある掟を全部覚えてそのとおりに行うというのはなかなか大変です。それで多くの人は、律法の専門家である律法学者たちのところに行って、こういう場合はどうしたらよいのかという、信仰の生活の指導を受けたようです。また時には、ユダヤ教に改宗したいと願う異邦人もあったようで、そういう異邦人にとっては600もある掟を最初から覚えるのは本当に大変なことですから、律法の専門家に「これさえ覚えておけばよいという戒めを教えてほしい」と尋ねるということがあったそうです。ですから、律法学者たちにとって「あらゆる戒めの中で、どれが第一のものなのか」という問いは、いつも心の中で考えているような問いであったようです。
 ここに登場した律法学者も、常々「あらゆる戒めの中でどれが第一のものか、どの掟を第一と考えればよいのか」ということを、真剣に問い続けていたのかもしれません。まじめな人だったのでしょう。これさえ守り行っていれば大丈夫だという掟があるなら、律法の中心、要というような掟があるのならぜひ知りたい、このイエスという驚くほど力ある言葉を語るこの人なら、いったい何と答えてくれるだろうかと期待をこめて、主イエスに問うたのではなかったかと思います。「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか」。

 私たちにとっては、律法とか掟とか戒めというのは、あまり関心がないことかもしれません。今私たちの教会では、二回目の聖書の通読をしておりますが、旧約聖書の最初のところ、律法の書・モーセ五書と言われるところから読み始めるわけです。創世記はよいとしても、出エジプト記の後半あたりからレビ記、民数記や申命記と読み進めてまいりますと、これこれのことはしてはならない、これこれのことをこうしなさい、という細かい規定がたくさん記されていて、だんだん読むのが辛くなります。こういう細かな戒めを読む意味があるのかと思う方もおられるかもしれません。
 また、私たちプロテスタントの信仰に生きる者にとっては、ただキリストを信じる信仰によって救われるのであって、律法を守らなければ救われない、ということは決してないと、そう教えられてきているのだから、律法はもう重要なものではない。そう考える方もおられるでしょう。確かに、律法を守り行わなければ救われない、ということはありません。主イエスこそ私の救い主と信じさえすればよいのです。しかしだからと言って、旧約聖書、その律法の書、その中核をなすモーセの十戒も、私たちにとって不要なものだ、などと言うことはできません。
 私たちは、旧新約聖書は神の霊の導きのもとに書かれた神の言葉であって、信仰と生活との誤りなき規範、正典である、という信仰に立っています。私たちにとっても、旧約聖書の律法は、私たちの信仰と生活を導く神の言葉です。律法を意味するトーラーというヘブライ語は、「矢を放つ」という意味があります。律法・トーラーというのは、私たちが行くべき道を指し示すために放たれた矢であるのです。この矢が放たれた方向に歩いていけば、幸いの道、祝福の道を生きることができるという、その道を示すのが律法なのです。少し言い方を変えれば、私たち人間、すべて神に造られた人間にとって、本来、最も人間らしく生きることのできる道を示すものが律法なのです。掟や戒めと聞くと私たちは窮屈なもの、束縛するものと思いがちですが、聖書の律法は本来束縛するものではないのです。そうではなくて、私たちを本当に人間らしく生きる自由へと解き放つものです。
 この律法学者が主イエスに問うた「あらゆる、すべての戒めの中で、どれが第一の戒めなのか、最も重要な戒めはどれであるのか」という問いは、私たちにとっても、とても重要な問いです。私たちもまた、いつも、いかに生きるべきか、ということを問うているのではないでしょうか。人間としてどう生きるのが最も良いのか、最も幸いな道であるのか、そのことを、たずね求めているのではないでしょうか。この律法学者は、そのことを主イエスに問うてくれているのです。私たちにとって、どのように生きるのが最も幸いな道であるのか、祝福された生き方であるのか、人間らしい、また、自分が自分らしく生きられる生き方であるのか、律法学者が主イエスに問うたのはそういうことでもあるのです。

 主イエスは、この重要な問いに何とお答えになったか。すべての戒め・律法の中で第一のこと、それは「愛すること」「愛」だとお答えになりました。私たちすべての人間にとって、人間がほんとうに人間らしく、私が本当に私らしく、幸せに生きることができる道は、愛して生きる道だと教えてくださいました。神と自分と隣人を愛して生きる道です。この愛に生きるところに私たちの本来の生き方があるのです。私たちにとってのほんとうの幸いがあります。私たちが真実に人間らしく生きる道があるのです。
 29~31節「29イエスはお答えになった。「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』31 第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる戒めはほかにない。」
 「あらゆる戒めのうちの第一のもの」として、主イエスは、旧約聖書の申命記とレビ記からの二つの戒めを取り上げられました。この二つを合わせて、これがすべての戒めのうちの第一のものだと示されました。神を愛することと、自分を愛するように隣り人を愛することとは別々のことではない、ひとつのことなのです。私は神さまを愛している、信じている、という人が、隣り人を軽んじたり、いじわるをしたり、憎んだりする、ということがあるとするならば、その人は、ほんとうには神を愛していはいない、神を信じていることにはならない、ということです。また、隣人を愛している、と言って何がしかの隣人愛を実践しているように見えても、神さまをないがしろにしていたなら、その隣人への愛は、単に自分のためのことになっているのではないか、ということです。
 主イエスはここで、「第一の戒めは、これである。第二の戒めはこれである」とお示しになって、神を愛することがまず先にあり、そこから、自分を愛し隣人を愛する愛が、いわば生まれてくる、というこの順序も大切だということをも示してくださっています。神さまとの関係が愛によって正しくされるときに、私たちは自分との関係も、隣人との関係も、さらにはこの自然との関係も、正しく、愛によって、整えられることができる、ということです。

 また、主イエスはここで、「聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である」というところから、申命記の言葉を引用されました。この言葉は、ただ単に神は唯ひとりだけであるという、いわゆる唯一神信仰を言い表しているというのではありません。そうではなくて「私たちの神である主は、私たちの祖先をエジプトの地から、奴隷の家から導き出し救い出してくださった唯ひとりの神である」という信仰を言い表しているのです。十戒の前文、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」(出エジプト20:2)を思い起こさせるものです。この十戒の前文は、神さまが「私はあなたを救い出したあなたの神だ」と自己紹介してくださっている言葉です。それに応えるように、「聞け、イスラエルよ。私たちの神である主」は、「私はあなたの神」と言ってくださり、私たちの祖先をエジプトの地から救い出してくださったこの神おひとりである、と言い表しているのです。
 この言葉は、私たちの神である主は、私たちをかけがえのない「宝の民」として愛し、救い出し、導いてくださった唯一の神、私たちに対して「私はあなたを愛しているあなたの神だ」と、人格的な愛の交わりをもって関わってくださる、そういうただひとりの神だという信仰を言い表している言葉です。この私を愛してくださるただひとりの神を、私たちは私たちの主として、私の神として信じます、ということを言い表しているのです。
 「私たちの神である主は唯一の主である」、だから、この私を愛し救ってくださった唯一の神を、私の神として、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして愛しなさい、と言われるのです。「私たちの唯一の神」、私たちを愛し救ってくださった唯一の神を愛し、敬って生きることは、神に愛され救われ、神のものとされた者にとっては、当然のことなのです。「愛しなさい」という命令は、あなたは神に愛せられているのだから、心のすべてで、魂のすべてで、力のすべてで、神を愛さないはずがない、だから愛しなさいという、そういう命令です。これは言わば「愛すること」への招きです。
 主イエスはこの「神を愛しなさい、愛さないはずはない」という命令と、レビ記の「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という命令を結び合わせられました。そのようにして、自分を愛してくださる神を愛し、信じて生きるならば、神に愛せられている自分を愛さないはずがない、同じように神に愛せられている隣り人を愛さないはずがない、だから愛しなさい、と、最も重要な戒めはこれだと、お示しになったのです。
 「神を愛しなさい。そして自分を愛するように隣人を愛しなさい」。この「愛しなさい」という愛の戒めは、あなたがたは神に愛せられている者たちであるだから、神を愛さないはずがない、そして神に愛せられている自分を愛さないはずがなく、同じように神に愛せられている隣り人を愛さないはずがないという、私たちを愛に生きることへと招く戒めなのです。

 しかし「愛しなさい」という命令は私たちには奇妙なことに思われます。愛することは命じられてできることではないからです。しかも「心、魂、思い、力」そのすべてを尽くして、そのすべてでもって神を愛しなさい、と言われるのです。心のすべて、魂のすべて、思いのすべて、力のすべてで、ということは、自分の中の一部分だけで神を愛するというのではなくて、自分の心も魂も思いも力も、そのすべてでもって、神を愛せよ、ということです。心の底から、心のすべてで、うそ偽りのない心で、神を愛しなさい、と言われるのです。
 主イエスは、「心と魂と力とを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という申命記の言葉に「思いを尽くし」という言葉を付け加えられました。「思い」という言葉には、「理性、知性、理解力」という意味もあります。主イエスは、あなたの理性のすべて、あなたの知性のすべてでも、神を愛しなさい、と言われたのです。ただやみくもに愛するのではなくて、理性的に、知性をもつくして、神を愛しなさいと言われました。
 しかしそのように「愛しなさい」と言われても、そのように愛することが当然なのだからと招かれても、心から愛する、ということは、命令され強いられてできることではありません。子どもに、「神さまを信じなさい、信仰を持ちなさい、そうしたらおこずかいを増やしてあげる」と言って、子どもが「神さまを信じます」と言ったとしても、そこに神さまへのほんとうの信仰があるか、神さまへのほんとうの愛があるかどうかは疑わしいのです。
 けれどそれでも、主イエスは「愛しなさい」と命じます。それは、神さまの愛に応えて、全存在でもって神を愛し神を信じて生きるところにこそ、私たち神に造られた人間が、本当に人間らしく自分らしく生きる生き方があるからです。主イエスはこの愛に生きるようにと、私たちを招くのです。愛して生きるところにしか、私たちが人間らしく自分らしく生きる道はないから、「愛しなさい」と、主イエスは私たちを愛へと招くのです。

 律法学者は、この主イエスの答えに対して、「みごとです、先生、あなたのおっしゃることは真実です」と言いました。そして、主イエスの答えをまことに正しく理解し、受け取りました。「「神は唯一である。他に神はない」と言われたのは、本当です」真実ですと、この唯一の神、この自分を愛し救ってくださる神の他に神はない、という信仰に生きることこそ、私たちが本当に自由に、人間らしく自分らしく生きることができる真実の道だと言ったのです。そして、この神を愛し、また隣人を自分のように愛するということは、どんなささげものよりもいけにえよりも優れている、すなわち神さまが最も喜んでくださることであり、これが私の生きるべき幸いの道、喜びの道ですと言ったのです。主イエスは、この人に言われました。「あなたは神の国から遠くない。」
 しかし「遠くない」とは、考えてみると微妙な言い方ではないでしょうか。主イエスはこの律法学者に、「あなたはもう既に神の国に入っている」とはおっしゃらなかったのです。ある人は、この律法学者は、ここで確かに、主イエスの答えを正しく受け取り、まことに正しく理解している、もうほとんど信仰の道に入りかけている、けれどもそれは、頭で理解したのであって、実際に神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するという道を生き始めているのではない、ということを申します。だから主イエスはここで、「神の国から遠くない」という微妙な言い方をしたのだというのです。この人は、確かに神の国のすぐ近くにいる、神のご支配のすぐ近くに立っている、けれど、最後の一歩を踏み出していない、踏み出せていない、ということなのかもしれません。けれども、そうであるとしても、この人は「神の国から遠い」と言われたのではないのです。あなたは「神の国に近い」と言っていただいているのです。律法学者へのこの主イエスの言葉も、主イエスの招きの言葉であるでしょう。あなたはすぐ近くにいるのだから、一歩を踏み出してごらんなさい、という招きの言葉であると思います。

 唯一の神を私の神として信じ、信頼し、この神に愛せられていることを知り、この神の愛に応えて、神を愛し、自分を愛し、隣り人を愛して生きる。この愛に生きる。この道を歩むことは、おそらく私たちにとって、最も幸いな道であると同時に、危険な道でもあるのだと思います。愛に生きることは、与えて生きることです。ささげて生きることです。それは、ぬくぬくとした安全なところから、危険なところへと足を踏み出すことなのではないか、とも思います。
 私たちは、愛することができないと嘆きます。ほとんど途方に暮れるような思いになります。愛において常に破綻する自分の惨めさを思い知らされます。それと同時に、愛に生きることを、その道に一歩踏み出すことを、「恐い」と、ほとんど本能的に思うところがあるのではないでしょうか。それは、それほどに私たちが神を愛することも、自分を愛することも、隣人を愛することもできない、その罪の悲惨の中にいる、ということでもあるのでしょう。

 昨年の秋に、聖学院大学の先生を退職なさった方から一冊の本をいただきました。学校礼拝での奨励をまとめられた本です。読んでおりますと、さまざまなことを教えられます。身を正されるようなよい本です。その終わりの辺りの奨励に「危険な美学」という題のものがあります。そこにこういうことが記されております。「聖書のことばは、ほんとうは、私たちにとって危険なものなのです。ですから、幸せな一生を送りたいならば、私たちは聖書のことばと無関係に生きるほうがよいかもしれません。にもかかわらず、『計算に合わない、損をするに決まっている』、『そのような強烈な美学を持たなければ、私たちはこの世をほんとうに生きたことにならない』こともどこかで知っている存在でもあるのです。」
 愛の戒めに従って、神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛して生きることは、計算に合わない、損をするに決まっている、そういう生き方にもなるでしょう。危険な美学をもって生きることになるのでしょう。けれども、そのような「強烈な美学」、これは、「信仰」と言い換えてもよいのかと思うのですけれど、それを持たなければ、私たちはこの世をほんとうに生きたことにならないということは、ほんとうにそのとおりに思います。

 危険な強烈な美学をもって生きること―私はそれを、信仰をもって愛に生きること、と言い換えたくなりますけれど―、その道を一歩踏み出すとき、しかしそこに、なんと自由な、ひろやかな世界が、広がっていることでしょう。解き放たれた自由の世界が広がっていることでしょう。神を信じ、神を愛し、神に愛せられている自分を愛し、神に愛せられている自分を愛するように、神に愛せられている隣り人を愛して生きる。この喜ばしくも危険な道、そこには常に、「私についてきなさい」と言って前を歩いていてくださる、主イエスがおられるのです。私のために、心も魂も思いも力も、そのすべてを、その命のすべてを与え尽くし、ささげ尽くしてくださった主イエスがおられるのです。
 愛に生きることができない自分の惨めさを嘆くばかりではなく、また、愛に生きることを恐れる臆病にとらわれるのでもなく、この喜ばしい危険な道、そして私たちを自由にしてくれる道へと、主イエスによりすがりながら一歩、ほんの小さな一歩でも、足を踏み出していきたいと思うのです。