2023年1月22日 主日礼拝説教「イエスはキリスト、生ける神の子」 東野尚志牧師
詩編第42編2~7節
マタイによる福音書第16章13~20節
今日は、午前中の礼拝に引き続いて、午後には、延期されていた半日修養会を開催します。その意味では、朝の礼拝から修養会は始まっていると言ってよいかもしれません。「教理を学ぶ意味」という主題を掲げています。もちろん、修養会に参加しない人たちもいますから、午後の学びの導入だけを語るわけではありません。しかし、修養会の主題を意識しながら、キリスト教の教理の中心と言ってもよい「キリスト論」に関わる聖書の箇所を選びました。主イエスの一番弟子であったシモン・ペトロが、弟子たちを代表して、主イエスに対する信仰を言い表した、ペトロの信仰告白を記しているところです。
先ほど朗読したマタイによる福音書第一六章一五節と一六節を、もう一度お読みします。「イエスは言われた。『それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。』シモン・ペトロが答えた。『あなたはメシア、生ける神の子です。』」。マタイによる福音書は全体が二八章まであります。一六章というとちょうど折り返しに当たると言ってよいかもしれません。福音書の前半の締めくくりとして、前半のクライマックスとして、ペトロの信仰告白が響き渡ります。そしてそこから、物語は十字架の死をクライマックスとする後半部へと進んで行くことになります。その大事な切り替えのポイントに、信仰告白が刻まれているのです。
「あなたはメシア、生ける神の子です」。私たちの信仰は、この短い告白の中に、集中的に表されています。私たちがこの朝、ここに集まって、共に礼拝をしていることの意味は、主イエスの御前で、主イエスに直面して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白することができる、その一点にかかっています。私たちの生活全体が、この告白を目指しています。そして、この告白から、新しい歩みが始まるのです。
それは、マタイによれば、主イエスが弟子たちと共に、フィリポ・カイサリア地方に行かれたときのことでした。主イエスは道々弟子たちにお尋ねになったのです。「人々は、人の子を何者だと言っているか」。恐らく既に、主イエスの権威ある教えと不思議な力ある業のことが、かなり広く評判になっていたと思われます。そのことを承知しながら、主イエスは弟子たちに問われるのです。「人々は、人の子を何者だと言っているか」弟子たちは答えました。「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、エレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいます」。
主イエスの業と言葉を見聞きした人たちは、やはり主イエスを、ただの人とは思えなかったようです。人々は、新しい始まりを待ち望んでいました。ローマ帝国に支配される中で、新しい時代の到来を信じていました。正義と平和の支配する新しい秩序を求めていたのです。新しい時代が来る前には、そのための使者が現れると約束されていました。救いの到来を告げ知らせ、そのための備えをさせるために、先駆者が来ることになっていたのです。つむじ風と共に天に上げられた預言者エリヤが再び現れると言われました。預言者エレミヤが現れるという言い伝えもありました。洗礼者ヨハネ、ヘロデに首を切られたヨハネがよみがえったと思って恐れた人もいたようです。様々なしるしをもって、新しい世界が始まることを人々は求めたのです。そして、このイエスという人物こそは、その始まりを告げる預言者の一人ではないかと受けとめた人は少なくありませんでした。
人々はお互いに、主イエスのことを噂し合ったに違いありません。けれども、主イエスはその噂の内容に関心を示すのではなくて、ただ一点を問うておられます。「何者だと言っているか」というその一事です。イエスを誰と言うのかという一事を問われるのです。それはただイエスという人物についてどう思うかというような感想を述べることに留まりません。イエスを誰と言うかによって、主イエスとの関係が決まるのです。それは、恐ろしい重大な問いだと言わなければなりません。主イエスとの関係が決まる。それだから、この問いは、決して第三者的に、その関係の外に立って、問うたり答えたりすることのできない重みがあります。主イエスはさらに突っ込んで、今度は、弟子たち自身に問われるのです。
「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。先ほどの「人々」に対して、ここでは、「あなたがた」という主語が強調されています。主イエスは、私たちと向かい合うようにして、私たち自身に問いかけておられるのです。これは、あらゆる時代の人間に対して、問いかけられている言葉ではないでしょうか。人々ではない、あなたがたはどうなのか、と主は問われるのです。
教会の中で、この大事な問いが問われる場面があります。それは、洗礼を志願する人が与えられた時です。もちろん、いきなりではなくて、さまざまな勉強会や準備を経てのことになりますけれども、最後に、役員会の中で受洗志願者に対する試問を行います。志願者が与えられたら、うれしくて大歓迎、というだけでは済みません。役員会の中で、その信仰を確かめるための面接・試問をするのです。ずらりと居並ぶ役員たちの前に座ると、それだけで緊張するかもしれません。面接においては、自分が洗礼を志願するに至った経緯について、また信仰について、自分の言葉で述べることが求められます。それを聞いた後で、役員たちから質問をします。それにも答えなければなりません。確かに、そこでいろいろな言葉が語られます。そして、その言葉はそれぞれの人身に問いかけておられるのです。これは、あらゆる時代の人間に対して、問いかけられている言葉ではないでしょうか。人々ではない、あなたがたはどうなのか、と主は問われるのです。教会の中で、この大事な問いが問われる場面があります。それは、洗礼を志願する人が与えられた時です。もちろん、いきなりではなくて、さまざまな勉強会や準備を経てのことになりますけれども、最後に、役員会の中で受洗志願者に対する試問を行います。志願者が与えられたら、うれしくて大歓迎、というだけでは済みません。役員会の中で、その信仰を確かめるための面接・試問をするのです。ずらりと居並ぶ役員たちの前に座ると、それだけで緊張するかもしれません。面接においては、自分が洗礼を志願するに至った経緯について、また信仰について、自分の言葉で述べることが求められます。それを聞いた後で、役員たちから質問をします。それにも答えなければなりません。確かに、そこでいろいろな言葉が語られます。そして、その言葉はそれぞれの人生の重さを担っているのです。志願者だけでなく、質問をする役員たちも緊張する場面です。
いろんなことが、いろんな言葉で問われるかもしれません。けれども、そこで問われる事柄を突き詰めれば、「あなたは、イエスという方を誰と言うのですか」という一句に尽きると言ってよいと思います。受洗に踏み切ることができずに迷っている人たちがしばしば口にされる言葉に、「まだ勉強が足りません。何も分かっていませんから、まだ早いと思います」、そういう非常に謙虚に響く言葉があります。もちろん、本当に何も分かっていなかったら困るのですけれども、それならば、一体、どこまで分かれば洗礼を受けられると言うのでしょうか。洗礼とは何か、キリスト者になるというのはどういうことかについて、あるいは、聖書について、教会の信仰について、学び始めたら切りのないことです。その意味では、信仰者は生涯、学び続けるのです。全部分かってからなどと言っていたら、いつまでたってもその時は来ないでしょう。
しかしまた逆に、私は十分に理解できたから、洗礼を受ける資格十分です、と胸を張って答えるとすれば、むしろ最も基本的に大事なことが分かっていないということになるかもしれません。いずれにしても、「あなたにとって、イエスとは誰なのか」という問いと取り組むこと、もっと正確に言えば、「あなたは私を誰と言うのか」という問いをもって、私たちと向かい合ってくださる主イエスと出会うこと、そこにこそ、信仰への入り口があるのです。
「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。この問いかけに対して、シモン・ペトロが弟子たちを代表して答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。ペトロがこの告白によって言い表したのは、人々が口にしたのとは全く別のことでした。人々は、主イエスが新しい時代の先駆者であると考えたのです。しかし、ペトロの答えは、主イエスこそが、新しい時代の究極的な言葉であるという告白です。主イエスの後に誰かを待つ必要はないのです。主イエスこそが、最終的な答えだというのです。私たちはこの時代に対して語ることができるでしょうか。「主イエスこそが私たち人間とこの世界に対する決定的な言葉なのだ」。そのように確信を持って証しすることができるでしょうか。
確かに、私たち自身も、この時代もさまざまな問題を抱えています。世界に目を向ければ、紛争の火種は尽きません。ウクライナの戦争も収まるどころか、日々新たな犠牲者が出ています。平和への道のりは遠いと言わざるを得ません。世界の中には、武力的な対立だけではなくて、経済的な対立もあります。ごく一部の豊かな国が、貧しい国々の資源を吸い上げてますます豊かになっていくような不公平が起こります。国内の政治に携わる者たちの中にも、自分が得た権限を利用して、自らの利益をはかることしか考えないような不正が見られます。「正直者がバカを見る」という言葉が依然として通用する社会です。身近なところでも、深刻な兄弟の不和や人間関係の対立があります。そういう社会のひずみは、最も弱い立場にある者たちに、しわ寄せをもたらします。また小さな子どもたちの心に影を落とすのです。とても社会正義が実現されているとは思えません。
私たちは、依然として待ち続けているのではないでしょうか。まことの正義と平和の実現する新しい時代を待ち続けているのではないでしょうか。ある意味ではその通りだと思います。この待望は世の終わりまで続くのです。歴史は完成のときを待ち望んでいるのです。しかしながら、そのような終わりを目指す歴史世界の中に、このペトロの告白は、決定的なくさびを打ち込んだのではないでしょうか。「あなたはメシア、生ける神の子です」。この主イエスこそは、メシア、キリストであると告白したのです。ほかの方を待つ必要はありません。まだ完成には至っていないけれども、確かに既に、主イエスにおいて、新しい秩序が始まっているのです。神の国が、この歴史世界の中に突入して来ているのです。
ペトロは、主イエスこそが、人間と世界の悲惨・困窮に対する究極的な答えであることを告白しました。そして、自らの学んだ言葉によって、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言い表したのす。「メシア」とは、油注がれた者という意味の言葉です。旧約聖書の中で、やがて来る約束の救い主を現す言葉として用いられてきました。この「メシア」をギリシア語に翻訳したのが、「キリスト」という言葉です。私たちは案外のんきに、「イエス・キリスト」をひとつの固有名詞のように考えがちですけれども、元来この言葉自体が、「イエスはキリスト、メシアである」という信仰告白になっています。旧約聖書の長い伝統の中から生まれた言葉なのです。
この方は「生ける神の子」です。物言わぬ死んだ偶像とは違います。生きて働く神の御子なのです。神の独り子が、まさに、救い主メシアとして、この世界に来られた。罪によってむしばまれ、死によって支配された世界のただ中に、救い主として来られたのです。確かに、世界も文明も病んでいます。命の源である神から引き離され、神に背を向けたときから、重い病におかされているのです。それは死に至る病です。私たち人間もその中であえいでいるのです。しかし今や、御子イエスにおいて、新しい救いの時代が始まりました。主イエスは、私たちを死の支配から贖い出し、むなしさの中から救い出して、命の祝福の中に置いてくださいます。私たちをご自身のものとして、死の力にうち勝ったよみがえりの命の支配の中に置いてくださるのです。それは、人間の常識を越えていることです。誰も想像しなかったことです。ただ神だけが、すべてをご覧になっている神だけが、その御心に従って、愛をもって救いの道を開いてくださったのです。
神さまは、独り子を世に遣わして、マリアとヨセフのもとに生まれさせるという驚くべき仕方で、そして、独り子を十字架に引き渡して、私たちの罪の贖いとして死に渡すという途方もない仕方で、さらには御子を死の中から引き上げて、よみがえらせるという圧倒的な仕方で、私たちのために命の道を開いてくださいました。この御子に対して、私たちは告白するのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。それは、私たちが下から積み上げていった知識によって到達する答えではありません。ただ天の父が、聖霊の力によって私たちの霊の目を開き、私たちに現してくださったのです。だから主イエスはペトロを祝福して言われました。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の天の父である」。
さらに主は続けて言われます。「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない」。主イエスは、滅びるべき人間の一人であるバルヨナ・シモンを、新しい名で呼ばれます。「ペトロ」。それは、シモンが主の召しを受けたときに与えられた名前です。今、その新しい名前によってペトロを召されます。ご自身の教会のいしずえとしてペトロを召されたのです。ここで言われる「岩」というのが、ペトロ個人を指しているのか、ペトロの信仰告白を指しているのかという点で、論争がありました。ローマ・カトリック教会は、この岩をペトロその人と見て、ペトロを初代のローマ教皇に立てています。そして、その権威を代々の教皇が継承していると主張するのです。一方プロテスタント教会は、ペトロの正しい信仰告白が基礎になるのであって、ペトロ個人ではないと主張して、教皇制度と真っ向から対立しました。
確かに、正しい信仰告白の上に教会は築かれます。その意味で、教会は告白共同体です。しかし、その告白の言葉さえ正しければそれでよいと言うことでしょうか。そうではありません。告白というのは、その告白をする主体が問われます。ペトロ個人は確かに、不確かな存在であったかもしれません。直ぐ後では、主イエスからサタン呼ばわりされることになります。その意味で、このときの告白の内容についても、どれ程よく理解していたか分かりません。さらに主イエスは、十字架におかかりになる前の晩に、たとえ一緒に殺されることになっても主に従うと豪語したペトロに、厳しい予告をされました。ペトロが三度にわたって主を知らないと言い、ご自身との関わりを否定することを、主は見抜いておられたのです。
しかし、主イエスは、ペトロの挫折を見抜いた上で、ペトロに向かって言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカによる福音書二二章三一~三二節)。主イエスは確かに、ペトロの弱さを知っておられます。しかし同時に、その立ち直りを信じておられます。なぜなら、主イエスがペトロのために、その信仰がなくらならないように、祈っていてくださるからです。そして、ペトロに新たな使命をも与えられました。挫折の中から立ち直ったとき、兄弟たちを力づける務めがペトロに託されたのです。
ここでも同じだと思います。ペトロ自身は不確かな存在であるかもしれません。しかし、主イエスは、ご自身と直面したときの、ペトロの告白を支えながら、それを受け入れてくださいます。この告白を担ったペトロを祝福されたのです。ペトロという個人の上にではなく、また信仰告白という言葉の上にでもなく、この告白の出来事の上に、教会は築かれます。主イエスと直面したときに、ペトロが信仰を言い表した、その出来事を岩として、主イエス自ら、ご自身の教会を建ててくださったのです。そして、ペトロと同じように弱く不確かな私たちも、主イエスによって選ばれ、主イエスによって贖われ、主の教会を建てる生きた石のひとつとして用いられるのです。
さらに主イエスは、ペトロに対して「天の国の鍵」をお授けになりました。主はペトロに言われます。「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる」。この御言葉を根拠にして、西欧の絵画や彫刻において、ペトロは腰に「鍵」をぶら下げた姿で登場することになります。ひと目でペトロだと分かる「おしるし」です。ペトロにおいて、教会は、主から大切な「鍵」を託されたのです。それは、「天の国の鍵」と呼ばれます。鍵ですから、誰に対して天の国が開かれ、誰に対しては閉じられるのかということを分ける働きをすることになります。救いに関わる重大な権能が、教会に託されているのです。
それは何も、私たちと遠いところの話ではありません。先に触れた受洗志願者の面接・試問は、鍵を託された教会の役員会が、まさに、その鍵の権能をもって、志願者の救いに関わる重大な決定をする場面だと言ってよいのです。洗礼を受けること、それは、キリストとひとつに結び合わせられて、罪に死に、神のものとして新しく生まれることです。神の民のひと枝として、新しく生まれるのです。キリストによって、陰府の門は撃ち破られました。陰府の力も主の教会に対抗することはできません。「陰府」とは、闇に閉ざされた死の世界であり、「陰府の門」は「死の門」です。確かに、私たちはやがて、地上の命の終わりのときを迎えます。私たちは死に直面させられます。しかし、主に結ばれているならば、私たちの前に、死の門ではなく、天の国の門が開かれるのです。
年が明けてすぐに、別帳会員の葬儀を行いました。葬りに立ち会うとき、私たちは改めて、自らが死すべき存在であることを思い知らされます。しかし、私たちは地の命の終わりを迎えたとき、死と滅びの門の中に飲み尽くされてしまうのではありません。主イエスの復活によって、死は勝利に飲み込まれたのです。死はもはや私たちを支配しません。私たちは、主イエスのものとして、神の民として生きるとき、死を通して、よみがえりの命へと招かれていることを、信じることができます。私たちが生きているときだけではなくて、死ぬときも、死の中においてさえ、私たちは身も魂もキリストのものとされているのです。よみがえりの主が私たち共にいてくださり、私たちをしっかりと捕らえていてくださいます。そこに、死によっても脅かされることのない確かな慰めがあるのです。
たとえ、次の主の日までに、私たちの地上の命が終わりを迎えることになったとしても、きょうの礼拝が、私たちの地上での最後の礼拝になるとしても、恐れる必要はありません。「あなたはメシア、生ける神の子です」。この信仰の告白をもって向かい合うよみがえりの主が、私たちと共にいてくださいます。死に勝利された生ける主の御手に、私たち自身と私たちの愛する者たちを、信頼をもって委ねることができるのです。たとえ、魂が絶望の淵に打ち沈むような嘆きの中にあっても、なお主を仰ぎ見るようにして、「御顔こそ、わが救い」と告白することができる(詩編四二編六節)。その確かさに支えられながら、この週も、それぞれに与えられた務めに励みたいと思います。