2023年4月16日 主日礼拝説教「献げるということ」 東野ひかり牧師
マルコによる福音書第12章41~44節
イザヤ書第66章1~2節
今朝は、マルコによる福音書第12章41~44節からみ言葉を聞いてまいります。この聖書の箇所は、皆さまの多くが以前の翻訳の言葉で〈レプタ二つを献げたやもめの話〉としてよく知っておられるところと思います。実を申しますと、説教の計画を立てましたとき、厳密な意味での連続講解説教をしているのではないのをよいことに、私はこの箇所を飛ばしたのです。前回2月に説教させていただきましたときは、この次の第13章に進んでおりました。とても正直なことを申し上げてしまいますと、私はこの箇所を避けたのです。ここはどうもやりにくい、そう感じるところがあったのです。けれどもそれはやはりよくなかったと、反省いたしました。ちょっと戻ることになりますが、今朝は皆さまとご一緒に、この貧しいやもめの姿に、真正面から向き合いたいと思っております。このやもめの話にきちんと向き合って、今日私たちが聞くべきみ言葉を共に聞き取ってまいりたいと願っております。
なぜ私が、この〈レプタ二つを献げたやもめ〉の話を、このやもめの姿を避けたい、と思ってしまったのか。この話は実に単純な、そしてとても短いエピソードです。けれども一度読んだら忘れられない強烈な印象を与えられる話です。〈レプタ二つのやもめ〉と言えば、教会の中では、その人が何をした人であるのか、その話がどういう話であるのか、すぐに通じる、そういう話でもあります。しかしそのようなこの話を、私はどうして避けたいなどと思ったのか、お察しくださる方もあるかもしれませんが、それはこの話が、私たちを大いに戸惑わせる話でもあるからです。
この貧しいやもめは、たった二枚しか持っていなかったレプトン銅貨、しかもそれがこの人の「持っている物のすべて、生活費の全部」であった、その銅貨二枚を、それを二枚とも、この人は神にお献げしてしまった、献金してしまいました。二枚あったのだから一枚は自分の手元に残しておこう、などとこの人は考えませんでした。二枚とも献金してしまった。このことが、まず私たちを大いに戸惑わせます。そして、このやもめの姿をじっと見ておられた主イエスは、このやもめの献金を深くお喜びになっておられるのです。この主イエスのお姿が、さらに私たちを大いに戸惑わせると思います。主イエスは、このやもめの驚くべき、とんでもない、と言ってもよいような献金の姿、献げる姿を受け入れ、喜んでおられるのです。
「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」この言葉はいろんなことを考えさせられるものですけれども、主イエスはここで、やもめの献金の姿を深く喜び、おほめになっておられます。この言葉は主イエスの深い喜びを表している言葉です。
私たちは、自分の「生活費を全部」献金してしまったこのやもめの姿にも、そしてそれを喜びほめておられる主イエスのお姿にも、戸惑いを感じるのではないでしょうか。あるいは、たじろぐような思いをさえ感じるのではないかと思うのです。少なくとも私自身は、このすべてをささげてしまったやもめの姿と、それをお喜びになる主イエスのお姿に、戸惑いを覚えます。もっとはっきり言えば、恐れるような思いさえ覚えるのです。本当に短い、小さな物語です。けれど、この話は、私にはとても大きな物語です。
マルコによる福音書を解説しているある小さな注解書が、この箇所について、興味深いことを書いていました。少し説明の言葉を加えながら、ご紹介いたします。〈イエスは、なぜこの女性に、彼女の生計のためにはお金を取っておくべきだと、ここで言ってあげないのだろうか。このやもめは何も言わず黙って、その持てるものを全て、神殿に(つまり神に)あげて(ささげて)しまう。彼女は、神の助けを当てにしてそうするのだろうか。それは信仰だろうか。あるいは深い諦めなのだろうか。神殿は彼女が持っていた最後のものすら取り上げてしまった。(この物語は、受難物語の中の小さな感動的な物語と受け取られてきたかもしれないが、本当にそう言えるだろうか。) この物語は、私たちの憤りや怒りを呼び起こすのではないか。神礼拝は、このような、人間の自己奉献を問う(求める)のだろうか〉。
聖書の注解書が、こんなことを書いていると、少し意外に思いながら読みました。こんなことを書いている注解書は、私が読みました限りですが、ほかにはありませんでした。この物語は、小さな感動的な物語、というのではなくてむしろ、私たちの憤りや怒りを呼び起こすものなのではないか、そう問いかけるのです。また、このやもめの献金の行為は、〈それは信仰だろうか、あるいは深い諦めなのだろうか〉とさえ問うのです。つまり、このやもめは、信仰のゆえに自分の持てる物すべてをささげたのではなくて、あまりの貧しさゆえに、生きることを諦めて、生活費の全部をささげるというような、ある意味自殺行為のようなことをしたのではないかと問うている。少々斜に構えた、斜め上からの見方かもしれません。しかしそう考えたくもなる気持ちは、私たちにも分かるのではないでしょうか。それほど、このやもめの行為は、私たちには理解できないものだと思います。とんでもないことをしたものだと、私たちには思われるのです。
少し前に、旧統一教会の献金の問題が、世間を騒がせました。宗教というのは恐い、本当に恐ろしい、なけなしの生活費まで全部献金しろと言ってくる、そんな論調がワイドショーなどで繰り広げられ、繰り返されていました。教会もキリスト教も、世の中からそのような宗教のひとつと見られるようになってしまいましたし、今もそうだと思います。
このやもめの献金の話は、そういう世間の論調を補強するような、まさに〈恐い話〉だと、そう思われる方もあると思います。私たちがこのやもめの姿や、それを喜ばれる主イエスのお姿に戸惑い、恐い、とさえ思ってしまうのは、ここには、常軌を逸した、常識から外れた、私たちの理解できない、とんでもない行為、いわゆる宗教の恐さを表すような行為が語られているようにも感じるからではないかと思います。
けれども、私自身が、このやもめと主イエスの姿に正面から向き合うことに戸惑いを覚え、恐れるような思いさえ抱くのは、単にここに、いわゆる宗教というのは恐ろしいものだというようなことが語られているから、ということだけではないのです。
この小さな物語が私たちに問いかけております事柄は、私たちの主が、私たちの愛する神さまがお喜びになる、本当の礼拝とはどういう礼拝であるのか、ということなのです。この貧しいやもめがしていることは、自分をささげる、自分のすべてをささげる、ということです。そして、私たちの愛する主が深くお喜びになる礼拝、私たちの愛する神さまが心からお喜びになる礼拝というのは、このやもめの、自分の生活費の全部を献金してしまった、という姿に表されている礼拝の姿だと、ここにはっきり示されているのです。このことが、私を、また私たちを、大いに戸惑わせるもうひとつの大きな理由だと言わなければならないのです。
ある人はこの箇所に、〈本当の礼拝〉という題をつけました。そのとおりなのです。ここに、このやもめの姿に、本当の意味で、真実に、神を礼拝する人の姿、神に祈り神を拝む人の姿が示されているのです。主イエスが、このやもめの献金を喜んでおられるのは、そこに、真実に神を拝む人の姿を見出したからでしょう。間もなく、あと数日後には、十字架におかかりになるというときに、この神殿の中で、主イエスはこの一人の貧しいやもめを見出されました。このやもめが、自分の持っている物すべて、その生活費のすべてを惜しむことなく手離し、神にささげる姿を見つけ、そこに真実に神を礼拝する者の姿を見出されて、主イエスは、深くお喜びになったのです。
このやもめが、私たちの前に見せているのは、〈本当の礼拝〉、真実に神を礼拝する者の姿です。それが、このやもめの献金の姿に表わされているのです。けれど一方で、このことこそが、私たちを戸惑わせる、恐れをさえ抱かせるのだと思うのです。先ほどの聖書注解者は問いかけました。〈神礼拝は、このような、人間の自己奉献を問う(求める)のだろうか〉と。この人はおののきながら、ある種恐れを覚えながら、このように問うているように私には思われます。
しかし、誤解を恐れずに言いますなら、言わなければなりませんのは、真実の神礼拝は、本当に神を礼拝するということは、確かに、このような私たちの自己奉献、言い換えるなら〈献身〉を求めるのです。聖書は、このやもめの物語においてだけではなくて、他のところでもそのように語っていると、申し上げなくてはなりません。
私たちが思い起こすことができますのは、ローマの信徒への手紙第12章1節でありましょう。使徒パウロの言葉です。「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神の喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。」
使徒パウロも言うのです。私たちが神を礼拝するということは、自分の体を、自分のすべてを、神におささげするということだと。それこそ「理に適っている」、つまり当然のこととして私たちがすべき礼拝なのだと。そして、神は、そのような礼拝をこそ喜ばれるのだと。
私たちは今日この朝、私たちが感じる戸惑いや、おののく思い、恐れる思いに逆らって、それを超えて、この貧しい一人のやもめの姿をしっかりと見つめたいのです。そしてこのやもめの礼拝の姿に、私たちも自分の姿を重ねて、神を礼拝したい、そのように願うのです。
この話は、主イエスが神殿の中に置かれていた献金箱の向かいに座って、人々がその献金箱の前にやって来て、次々にお金をそこに投げ入れる様子を見じっと見ていた、というところから始まっています。
「イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち、一クァドランスを入れた。」
神殿に置かれていた「献金箱」というのは、全部で13個あったそうです。そしてそれぞれの箱に、ラッパの形をした受け口のようなものが付いていたようです。13個の献金箱は、それぞれ献金の用途別になっていて、13番目の箱が自由献金の箱だったと言われています。それらの箱のそばには、祭司が立っていて、献金が目的別にきちんとささげられているかどうかということや、ローマの通貨ではなくて神殿用のお金が用いられているかどうかということなどを確認していたそうです。自由献金をささげる人たちは、祭司に「私はこれこれのためにいくらをささげます」と申し出ます。すると祭司は「だれだれさん、なになにのために、いくらいくら献金です」というように、大きな声で告げて、ラッパの形の献金箱にお金が投げ入れられた、そんなふうに献金がささげられていたと、説明されます。ラッパの形の受け口ですから、そこに硬貨が投げ入れられるとその音が響き渡る、たくさんの献金が入れられれば大きな音がするし、わずかな献金ならあまり音もしない、そんな情景が主イエスの目の前で繰り広げられていたのです。主イエスがじっと見つめていたのは、そういう人々の献金の様子でありました。
それを見つめていた主イエスは、人々の何を見つめておられたのでしょうか。誰がいくらささげたかというようなことを見ておられたわけではないでしょう。献金をささげる大勢の金持ちたち、大勢の人々の、ささげる心、ささげる姿勢の真実を、見つめておられたのでありましょう。そして、主の目が見抜いていたのは、純粋に神のみ前に、神へのささげものとして献金をささげているという人々の姿ではなく、人に見られているということを意識して、すなわち人の目を意識して、献金をささげていた人々の姿であったのではないかということは、想像に難くないと思います。「大勢の金持が、たくさん入れていた」という献金の様子は、主イエスの目には、神のみ前にささげられる神へのささげものではなくて、人の目の前にささげられる自分を誇るためのささげものと映っていたのではないでしょうか。
そのような中に、一人の貧しいやもめがやって来ます。この人は、人の目を気にすることなく、誰にどのように見られるかなどということは、全く気にもとめず、自分が持っていたすべて、その生活費の全部を、ためらうことなく、惜しみなくささげます。けれどその献金は、金額とすれば、ほんとうにわずかな少ない額の献金でした。レプトンは、最小の通貨の単位です。クァドランスというのも、ローマの通貨の最小単位です。それがどんなに少ない額の献金であったか、ということがはっきり示されているのです。今の私たちのお金に換算するなら、100~150円くらいでしょうか。そしてそれが、このやもめの持っていた全てでした。この人はそれほどに貧しかったのです。けれどもその貧しさにとらわれてはいませんでした。その貧しさの中から、自分にできる限りのささげものをしたのです。ためらうことも惜しむこともなく、全く自由に、持っていたものすべてをおささげしました。
この人は、私たちであるならつい口にしてしまいそうな、「こんなわずかなものしかおささげできなくて申し訳ない」という言い訳のようなことは何も言っていません。また逆に、自分は持っている物を全部おささげするのだと自慢するようなことももちろん言いません。ただ黙って、自分ができる精一杯のささげものをささげました。この人は、人の前に、人の目を意識して、ではなくて、ただ神のみ前に、ただ神に向かって、ひとすじの心で、それゆえに自由な心で、おささげしたのです。
主イエスはわざわざ弟子たちを呼び寄せて、このやもめの姿を指さすようにして言われます。「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
主イエスは弟子たちに、すなわち教会に生きる者たち、私たちに、「この貧しいやもめ」をしっかりと見よ、と言っておられます。主イエスは、「この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた」と言われて、「あなたがたもこのやもめと同じように生活費の全部を献金しなければならない、そうでなければ、あなたがたは本当の礼拝をささげていることにはならない」ということをおっしゃっているのではありません。このやもめの献金とそこにあらわされた神を礼拝するひとすじの心とを、深く喜んでおられるだけです。
主イエスがここで弟子たちに、また私たちに見てほしいと示しておられるのは、献金の額の大きさや少なさということでもなければ、その献金がその人の生活の中でどれだけの比率を占めるものであるか、ということでもありません。このやもめが、人の目をまったく意識することなく、ただひたすら神のみ前に立っている、その姿です。ただ神のみ前に立っている、それゆえにこそ、ためらうことなく、惜しむことなく、全く自由に、「乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部」ささげている、愛する神さまに向かってできる限りの、精一杯のささげものを心からささげている、このやもめの姿を、主イエスは弟子たちに、また私たちに示しておられるのです。
「生活費の全部」とあります。ここで、「生活費」と訳されている言葉は、ビオスというギリシャ語です。バイオテクノロジーなどというときの、バイオという言葉の語源です。〈生命、いのち、生活、生存の期間、生涯〉などの意味の言葉です。そこから生命にかかわる事柄全般を意味するようになり、生命をつないでいくための糧、生活費、という意味でも用いられるようになった言葉です。ある人は、この言葉の意味をよく表わすのは、英語のlifeだろうと説明します。Lifeは、いのちという意味もあり、同時に生活という意味もあります。このやもめは、自分のlifeを、いのちと生活のすべてを、神におささげしたのです。
このやもめは、ただ神のみ前に、ただ神に向かって、自分のいのちも、明日からの生活も、自分のいっさいを、神の恵みのみ手の中に委ねきったのです。そのようにして神を真実に礼拝した、真実に神を拝んだのです。そのことこそが、主イエスを喜ばせたのだと思います。主が、弟子たちに、また私たちに、しっかり見てほしいと願われたのは、この人が、神のみ前に、神の恵みのみ手の中に、自分のいのちも生活も自分のいっさいを、何の心配をすることなく、自由な心で委ねたという、神を拝み礼拝する姿です。
自分のいのち、自分の生活、自分のすべてを神におささげするということは、神の恵みのみ手の中に自分を委ねる、何も心配することなく委ねる、ということです。主イエスは、このやもめが表したそのような真心からの礼拝の姿を深く喜び、やもめのこの姿にこそ本当の礼拝者の姿があると、お示しになったのです。
このやもめが持っている物すべて、生活費の全部を、献金してしまったということは、確かに私たちを驚かせます。私たちの常識からすれば、とんでもない、常軌を逸したことをしたものだと思います。理解できないことでもあります。しかしそのように戸惑いながらもこのやもめの姿に向き合いますとき、ここで、私たちがどうしても思い起こさねばならないことがあります。
それは、主イエス・キリストこそが、自分のいのちのすべて、その全部を、私たちのいのち(life)を救うために、ささげ尽くしてしまわれたお方だということです。このやもめのささげる姿は、主イエスご自身のお姿を指し示し、証ししているものでもあるのです。やもめは当然無意識であったでしょう。しかしこの人が自分のいのちと生活のすべてをささげ、神のみ手にゆだねた姿は、主イエス・キリストこそが、そのいのちを全部すべてささげ尽くして、すべてを父なる神のみ手にゆだねきって、私たちに新しいいのち(life)を与えてくださったお方だということを指し示し、証ししているのです。
私たちは、やもめの行為は常識外れで常軌を逸していると思います。けれども、神はその独り子をお与えになったほどに私たちを愛してくださった、その神の愛こそが、私たちの常識を超え、常軌を逸したものなのです。主イエス・キリストが十字架の上でそのいのちのすべてをささげ尽くされたこと、その主ご自身の献身、そこにあらわされた父なる神の愛、私たちのための救いの御業、それこそが、まことに私たちの理解を超えたとんでもなく大きな献身であり、計り知れない大きなささげものであるのです。
このすべてをささげたやもめの姿、その献身と真実の神礼拝の姿が、十字架を前にした主イエスにとって、どれほどの慰めであり、また喜びであったことだろうかと、思わされます。
今日この後歌います讃美歌391番は、「ナルドの壺ならねど」という讃美歌です。多くの人がこのやもめの姿と、この後第14章に登場する、主イエスの頭に「純粋で非常に高価なナルドの香油」を注ぎ切った女性の姿とを、重ね合わせます。二人のささげたものは、わずかな額の銅貨と非常に高価な香油という対照的なものでしたけれど、二人の女性はひとしく、神のみ前に、そして主イエスのみ前に、真心からの精一杯のささげものをしました。そして、この二人のささげものを、主イエスは本当に深く喜ばれました。それは、この二人が、真実の神礼拝の心、献身の心をあらわしたからであり、そしてそれによって、主イエスご自身の献身を証したからでありましょう。主イエスは、高価な香油を主に注いだ女性のわざを喜んで言われました。「するままにさせておきなさい。…私に良いことをしてくれたのだ。…この人は、できるかぎりのことをした。」
「するままにさせておきなさい」。その人の自由にさせなさい、そう主は言われました。主イエスは、私たちがただひたすらに神さまに向かって、また主イエスのために、神を思い主イエスを思って、心のままに自由におささげするささげものを、また、奉仕のわざを、私たちのそれぞれの献身を、「私に良いことをしてくれた、できるかぎりのことをした」そう言って、喜んでくださるのではないかと思う。私たちはそう信じてよいと思います。
主が私たちのために、いのちのすべてをささげ、与え尽くしてくださったことを覚え、そのことを思って、私たちは、私たちのいのちと生活を、恵み深い神のみ手に安心して委ねきる、その礼拝の心に生き、それぞれの献身に生きたいと願います。私たちのいのちと生活を、また私たちの愛と奉仕を、恵み深い神のみ手の中におささげしてまいりましょう。